大分県災害データアーカイブ|大分大学減災・復興デザイン教育研究センター(CERD) NHK大分放送局 × 大分大学減災
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被害【大正7年7月台風第5号】大分郡滝尾村

|災害番号:002680|固有コード:00268052

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市町村
大分市

概要(被害)

大分川の増水により流失した家屋が少なくなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

災害概要

11日午後10時20分頃より豪雨降り注ぎ漸次風勢を増し、12日午前2時には俄然北の烈風となり、同6時には最大風速北の16.6メートル/秒、瞬間最大風速北の23.5メートル/秒に達し、爾後衰へ、同10時より南西の疾風となれり。降雨は車軸を流すが如く強雨臻(編集者注:いた)り、5分間最大雨量は、12日午前1時15分より同20分に至る7.0ミリにて、1時間の最大雨量は12日午前3時25分より4時25分に至る、300ミリを測れり。10日の降雨総量は151.3ミリにて、11日は146.8ミリ、12日は187.3ミリにて、18日の日量は既往30ヶ所年中第3に位し、10日より12日に至る約2日半の降雨総量は485.4ミリにして、本所創設以来未曾有の大量なりき。隨て(編集者注:したがって)各河川は出水氾濫せり。(大分測候所気象概況記録)

此回の台風により、各河川とも出水氾濫し、大分市中は舟を艤し、多数の人員を救助し寺院に収容し炊出に努めたり。大分県下に於ける水害の判明し主なるものは、其当時死者3名、家屋流失及び倒壊28戸、橋梁流失38件、道路缼潰30ヶ所、鉄道線路破壊20ヶ所、溜池決潰6ヶ所、堤防決潰12ヶ所、船舶流失13隻、そのほか田畑の荒蕪に帰したるもの甚だ多し。新聞紙の伝うる所に據(編集者注:よ)れば、県下の全損害高50万円に上るべしと。当時豊州線にては、土砂崩壊のため不通となり、同保線部により200名の工夫を派して徹夜復旧工事に努めたり。(大分測候所 被害概況記録)

【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】

今回の県下大暴風のため流失した県費支弁に属する橋梁は累計34を算し、そのほか一部流失せるもの9か所、合計43か所に達したるが、なお道路の損壊、堤防決壊など枚挙に暇あらず、かつ護岸の破損に至りては今なお水深のため詳細判明せず、今後判明すべきもの少なからざるべく、当局にては各方面に手分けして流失せる橋材回収、交通途絶せる河川の渡し船、仮橋、架橋等着々調査進行中なるが、一両日中には道路損壊箇所も、応要修繕を加え人馬、空車くらいの通行には支障なきに至らしむる方針なるが、これら全部の損害程度、復旧工事費概算の判明するは本月末頃なるべしと。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日朝刊2面】

【大正7年7月台風第5号】

【出典:1918/07/12 6:00の天気図】

災害データ

最低気圧
966.1hPa
最低気圧観測地
-
最低気圧観測日時
1918/7/12 8:20
最大風速の風向
最大風速
16.6メートル
最大風速の観測地
大分
最大風速の観測日時
1918/7/12 6:00
累積最大降水量
584.3ミリ
累積最大降水量観測地
佐賀関
日最大降水量
354.5ミリ
日最大降水量観測地
由布院
最大日降水量の観測年月日
1918/7/11
最大1時間降水量
-
最大1時間降水量の観測地
大分
最大1時間降水量の観測年月日時間
-
死者・行方不明者数
22人
負傷者数
-
住家全壊/全焼数
123戸(棟)
住家半壊/半焼数
143戸(棟)
住家一部損壊数
-
床上浸水数
3151戸(棟)
床下浸水数
5113戸(棟)
道路被害 ※事前通行規制は除く
3062か所
橋梁被害
803か所
山・崖崩れ
458か所
被害総額
500 千円

主な被害

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大野川の護岸が、60間(=約109メートル)決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日3面(16日夕刊)】

大野川の堤防が2か所、83間(=約150.9メートル)決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日3面(16日夕刊)】

竹田より高千穂道の橋(土橋・6間(=約10.9メートル))が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日朝刊2面】

大野川の堤防が3か所、246間(=約447.2メートル)決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日3面(16日夕刊)】

大野川の堤防が3か所、133間(=約241.8メートル)決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日3面(16日夕刊)】

大野川の堤防が2か所、123間(=約223.6メートル)決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日3面(16日夕刊)】

住宅の裏山が崩壊し、家屋1棟が倒壊したがけが人などはいなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

降りしきる豪雨をついて付近の浸水地の住民数十名が中津警察署に殺到、旭橋の上の家屋の撤去を迫った。萱津付近の浸水は明治26年の水害に比べても割合が大きく、浸水家屋が200戸に及んでいるのは要するに排水地である橋の上に不自然な住宅を建築する許可を当局が出したためとして、その不当命令をただし、被害を予防するために行政訴訟を提起しようと13日以来、住民の間で協議が進められてきたが、費用などの問題で泣き寝入りの状態になっている。また町当局もこの問題に対して冷然であることも遺憾であるとある被害住民は憤慨している。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

宇目より佐伯港道の橋(土橋・12間(=約21.8メートル))が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日朝刊2面】

竹田より高千穂道の橋(土橋・8間(=約14.5メートル))が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月17日朝刊2面】

家屋がことごとく浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

番匠橋(130間=約236メートル)が流失、付近の日豊線鉄道工事も甚だしく水害を受けた。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

下関の彦島港から佐賀関製錬所へ向け鉱石(ヤクカシ)を運んでいた和船、第二大見丸が暴風雨のため難破。それを奈狩江村の漁業組合の2人が発見し、消防組と協力、現場へ決死者7人選抜し現場へ急行させ、辛うじて救助した。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

溜池の堤防長さ17間(=約30.9メートル)、高さ6間(=約10.9メートル)が決壊し、水田6反歩が流失、荒廃した。損害額は2000円の見込み。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

建築中の学校校舎、長さ22間(=約40メートル)、奥行き4間半(=約8.18メートル)の1棟が暴風雨のため倒壊した。同校舎は6分方しか竣成しておらず、損害は軽微だった。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

住宅(2間半に3間の瓦葺平家)が豪雨のために倒壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

4歳の子どもが自宅付近で遊んでいるところ誤って海添川の激流に墜落。浮沈しつつ3丁(=約320メートル)あまり流されているところを付近の住民が発見、救助し応急手当を加えた結果、ようやく蘇生し命に別条はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

折からの出水に長さ10間(=約18.1メートル)、高さ5間(=約9.09メートル)が決壊し、そのため逆巻く過水は同地灌漑田50町歩中、1町歩を流失させ、数町歩に土砂を氾濫させた。損害額は約3万円の見込み。

今回の決壊で溜池は貯水量が約3分の1になり、今後の灌漑上、不足になるということで、溜池に関わる耕作者が会合し善後策を競技しているがいまだ結論は出ていない。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)/16日7面(15日夕刊)】

家屋がことごとく浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日7面(15日夕刊)】

佐伯小学校前に新築中の南海部郡役所は8割の工事が進捗していたが、12日未明轟然たる音響とともに倒壊し、木材、瓦の破損が甚だしく、そのほか町内瓦壁などの剥脱崩壊したものが少なくなく、消防組を出して警戒につとめている。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

この3村は田面約20町歩洗われ、荒田と化し復旧の見込みは見当がつかず、また半荒田となったところも約20町歩あった。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

今津港で約30艘の漁船が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

目下仮鉄橋の仮設工事を急ぎつつあり20日以前には開通の見込み。それまでは山津川を徒歩連絡することで16日の一番列車より全線運転を決定、徒歩区間は20鎖4町(=約838.6メートル)で、山津川の両岸より各100尺(=約30.3メートル)のはしごで昇降の便に備え、手荷物、小荷物、新聞雑誌そのほか客車内に持ち込みうる荷持以外の積み込みの貨物は復旧まで中止することとし、徒歩連絡のためこの両岸において停車する時間は約40分間の予定である。なお川岸に仮事務所を作り、助役以下駅夫および運転事務所員が駐在し、電灯電話をはじめ必要な設備をなしている。徒歩は極平易にして手荷物は1個5銭で赤帽に託すことができる。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

12日午前9時には臼杵川の増水が1丈2尺(=約3.6メートル)に達し、橋の付近の家屋は全部浸水し、床上3-4尺(=約90-120センチ)に達したため、臼杵署では首藤署長以下、全署員が出動し、棟が浸かる程の激流を冒して危険区域の家族全部を救助し、付近の山村材木店に収容した。

【出典:大分新聞 大正7年7月16日4面(15日夕刊)】

水車小屋の留守をしていた70代の夫と60代の妻は就寝中激流のため水車ごと押し流され溺死した。この夫婦の40代の息子も両親の身の上を心配し見回りに出たが、同じく押し流されたが、その後、三保村善隆寺前で川岸に這い上がり一命をとりとめた。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

竹中渡し場付近の増水は26尺(=約7.87メートル)に達し、竹中の人家は床上5尺(=約1.5メートル)くらい浸水し、厩舎・物置など流失した。なお、竹中中判田堀割10坪、竹中駅付近で数十坪崩壊し交通途絶した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

帆船(400石積・乗組員3人)は鉱石を積み12日午前0時に守江港を出港、佐賀関港に向けて航行中、東村の沖合で難船沈没しているところを同地の漁民に救助された。船価2500円の損害、鉱石の価格は不明。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

住宅裏手の山が幅2間(=約3.6メートル)、長さ4間(=約7.2メートル)崩壊し、2軒の家屋を押しつぶした。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

住宅南側の山林が崩壊して、家屋を半破壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

三芳村竹田より豆田道の橋が墜落して交通が途絶した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

鶴崎道路の破損が2か所あった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

家族5人が濁流に流された。この家族の夫はじめ、4人は救助されたが30代の妻は、この日の午後、瀧尾村羽田の裏道で死体で発見された。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

千町歩内外が流失。農民は悲嘆の涙に暮れている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

臼杵川の堤防が250間(=約454.5メートル)決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

道路決壊が30間(=約54.5メートル)あった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

犬飼三重間の道路は破損が20余箇所に及び、涼月橋は一時流失の危険があったが免れたものの、左岸の橋台が破損した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

駅館川の増水が2丈1尺(=約6.3メートル)に達した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

村内の国道36号線で路側が崩壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

宇目より佐伯港道の橋(土橋・4間(=約7.27メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

蒲江道の橋(土橋・32間(=約58.1メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

国道35号線の橋(石橋・2間(=約3.6メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

国道35号線の橋(石橋・2間(=約3.6メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

豆田より四日市道の橋(土橋・18間(=約32.7メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

森より長洲道の橋(板橋・20間(=約36.3メートル))が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

森町より万年村塚脇に至る協心橋(土橋・50間(=約90.9メートル))の約25間(=約45.4メートル)が崩壊した。玖珠郡内では堤防の破損箇所が多い。

当初は渡し船で交通の便を図っていたが、一両日に仮橋の工事に着手する。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)/17日朝刊2面】

玖珠郡森より都府道耶馬橋(土橋・22間(=40メートル))が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

堤防約40間(=約72.7メートル)が決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

牧口橋下流堤防約150間(=約272.7メートル)が決壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

国道35号線の橋(石橋・27間(=約49メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

国道36号線の橋(土橋・5間(=約9メートル))が墜落。また村内の道路は30間(=約54メートル)が破損し、交通途絶になった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

蒲江道の橋(土橋・4間(=約7.2メートル))が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

番匠川は池船橋付近で増水が1丈2尺(=約3.6メートル)におよび隣村の家屋や田畑に水の侵入が多く、人畜の死傷は不明である。
濁流は平地の全部を洗い、市街は約3尺(=約90センチ)の浸水があったが、正午より水勢がやや減じ、池船橋はかろうじて流失を免れた。田畑農作物の被害は甚だしく、電信電話不通、郵便物は局内および佐伯駅に停滞し、汽車線路破壊のため発着は1日1回ないし2回のみになっている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)/大正7年7月16日朝刊4面】

玖珠郡森より都府道鶴居、真坂村内地内では道路崩壊の箇所が多く、車馬の交通が途絶している。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

玖珠郡森より都府道鶴居、真坂村内地内では道路崩壊の箇所が多く、車馬の交通が途絶している。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日7面(13日夕刊)】

神社裏手の石垣および玉垣などは根石を洗い取られたために全部崩壊し、神殿の一部地盤にも破損が生じた。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

蚕業会社の宅地内は河川のように洗いさられ倉庫はへの字形に傾き、事務室の地盤は洗い流され、家屋は危険な状態になっている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

住宅の裏山が崩れ、人家3棟が倒壊した。けが人などはいなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大湯鉄道の大分跨線橋、延長約100間(=約181メートル)が崩壊したため、12日より全列車の運転を中止し、復旧工事に着手しているが今日明日中の開通の見込みはない。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

水車小屋1軒が崩落のため倒壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

朝見川水道付近で上流より人らしきものが流れてくるのを防止作業中の男性が発見、濁流に身を挺して救助し、朝見病院へ担ぎ込んだ。救助されたのは9歳の女の子で川筋を通行中に誤って川に転落したものと判明し、親に引き渡された。このほか、朝見筋では七島田が約2畝歩洗い流された。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

境川鉄橋下流域の稲田約3反歩が洗い流された。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

築堤約15間(=約27.2メートル)(修築工費約500円)ならびに道路が各所で多少の損壊、海水浴場の建物2棟、砂湯の建物1棟が波に洗われたくらいで大きな被害はなかった。海岸道路に打ち上げられたゴミや木片などは別府町役場より片付けられている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

国道を隔てて女子師範と差し向かいになっている大分市立商業学校の敷地は今回の出水での被害はなかったが、国道から敷地に至る6,7間(=約10.9~12.7メートル)の道路は全部流失し、付近の国道の一部も大損害を生じた。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

11日午後7時頃の豪雨で河原内谷川で水車業を営む夫婦の住宅付近の崖の地盤が緩み、12日午前8時に突然崩壊、家屋もろとも押し流された。夫の50代の男性は同日午後11時に同村畑の森字河原で遺体となり発見された。妻の40代の女性の遺体は13日正午になっても発見されていない。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

前日来の降雨で増水がはなはだしく、11日午前9時頃、ため池の堤防中央より決壊したために植付田1町5反あまりを押し流し多額の損害が出た。区民総出で警戒したためそのほか2つのため池は無事だった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

各河川が氾濫し、深江の長堤が決壊、潮水が稲田に侵入し損害が非常に大きく、村民数百名が駆けつけ応急工事を行っている。また浸水家屋が多数あり、光景は惨憺たるものがある。また西浦川の石橋は墜落したところがあり、目下手当を行っている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

八坂川の増水は1丈5尺(=約4.5メートル)になり、川沿いの被害は少なくない模様で、野田区では目下工事中の養水溜池の堤防が崩壊しつつあり、区民総出で防水中である。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

山中にある溜池(面積2反歩)は11日夜、堤防が長さ約5間(=約9メートル)、高さ2間半(=約4.5メートル)決壊し、下流の田地1町3反歩を流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

乙津川の上流堤防180間(327メートル)、ほか1か所50間(90.9メートル)の堤防が決壊し、岩船神社付近の堤防を打越し、川の水が全村に横流、家屋1棟が流失(人的被害なし)、浸水200戸、約2町の田地が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川の堤防が長さ100間(181メートル)にわたって決壊、村内では家屋327戸が浸水、畑地が5町歩荒廃したものの人的被害はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川の堤防が長さ60間(109メートル)にわたって決壊、村内では家屋327戸が浸水、畑地が5町歩荒廃したものの人的被害はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により家屋1棟が流失、村では浸水家屋7戸を出した。そのほかにも道路の決壊が3か所あった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により60戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により集落の一部で10戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により集落の一部で10戸の浸水家屋があった(門前集落の被害を含む)。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により集落の一部で10戸の浸水家屋があった(佐柳集落の被害を含む)。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

家屋1棟が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により村全体で345戸の家屋が浸水、流失、倒壊もそれぞれ1戸ずつあった。

戸次方面では8日以来豪雨があり、10日正午までに19尺(=約5.7メートル)の増水があり、白滝橋が流失して一旦浸水し、さらに11日になり、また降雨があり非常の出水を見、夜に入って豪雨となり午前1時頃よりいよいよ増水し、午前7時には床上の浸水100戸のうち、95戸が浸水し、午前9時には23尺(約6.9メートル)の大洪水となった。若い女性が助けを求めながら濁流に溺死するものもあった。堤防の決壊、県電話線の切断、字備後方面の電灯柱の流失など被害がおびただしく、四齢、五齢の蚕を放棄したものも多く、明治26年以来の洪水で惨憺たる光景となっている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により80戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により70戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により92戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により32戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により村全体で284戸の浸水家屋があったが、住民は小学校に避難していたため人的被害はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

乙津川に架かるこの橋は3分の2が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により8戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

小学校の校舎(間口5間、奥行2間)1棟がならびに廊下の一部(長さ25間)が12日の雨のために倒壊した。被害額は1000円。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

住宅の裏山が崩壊し、家を圧倒。また上部にあった水田5畝が荒廃し、被害額は400円の見込み。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

材木商所有の木材が約2万円分流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

大野川筋の増水により162戸の浸水家屋があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

浜脇~西大分間で築堤切取の崩壊が発生。いったんは復旧したものの、13日(編集者注:12日の誤りか)午後7時に約450坪が崩壊。大分保線区では作業員や消防員など合わせて70~80名を動員し作業にあたったものの、13日午前10時30分現在では復旧に至っていない。

線路故障のため12日より不通になっている豊州線は13日午後5時45分大分駅発上り列車より行橋駅まで開通、運転を開始した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)/16日】

若松港から広島港に石炭を運んでいた福岡県門司市の帆船(69トン)が暴風雨のために香々地港沖合に避難していたところ沈没した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

若松港から大阪に石炭を運んでいた広島県浦崎村(現 尾道市)の帆船(51トン)は暴風雨に遭遇。香々地沖合に碇泊していたところ沈没した。けが人などはなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

広島県大柿村(現 江田島市)の帆船は中津町の海岸の沖合、8海里(14.8キロ)の地点を航行中、暴風のために沈難船沈没した。付近に出漁していた広島県横島村(現 福山市)の打瀬舟の乗組員が発見し、4人を救助して長洲町役場に引き渡したが残りの3名は行方不明となっている。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

木橋(2間/3.6メートル)が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

木橋(7間/12.7メートル)が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

高田より杵築道の橋が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面、7月16日】

30代の男性が溺死した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日3面(13日夕刊)】

橋梁の袖石板が破壊されたが、13日午前10時頃復旧した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日4面(13日夕刊)】

土橋(6間/10.9メートル)が流失ないし破損の被害があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

石橋(4間/7.2メートル)が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

石橋(4間/7.2メートル)が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

石橋(3間/5.4メートル)が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

板橋(9間/16.3メートル)が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

今津小学校付近の石灰小屋が浸水のために発火したが大事には至らず消火された。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

温泉場(風呂屋)が激流のために倒壊した。人命に別状はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

7月12日午後1時には小渕橋で14尺5寸(約5.5メートル)に達し、橋の芥除杭3本を押し流した。13日より渡船による連絡を行った。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

建築工事中の建物が暴風のために倒壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

土橋(8間/14.5メートル)が流失ないし破損の被害があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月14日朝刊2面】

犬丸川は出水が1丈5尺(4.5メートル)に達し、橋のウインダが水に洗われ橋体が転倒。門司・大分間は全く不通になった。

門司保線事務所では13日の開通を目指し約200名を動員して作業を行ったものの、13日午前10時半現在では復旧に至っていない。

13日午前中では復旧の見込みがなく、豊州本線は大分~門司間は同日午後6時の急行列車に間に合わせるべく極力工事を急ぎつつあるが、確実ではないと言われている。14日からは開通するのではないかとのこと。

線路故障のため12日より不通になっている豊州線は13日午後5時45分大分駅発上り列車より行橋駅まで開通、運転を開始した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)/14日4面(13日夕刊)/14日7面(13日夕刊)/16日】

高田より竹田津道の橋が流失し、高田町・臼野村方面の交通が途絶した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)/16日】

流失し通行できなくなった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

流失し通行できなくなった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

流失し通行できなくなった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

石橋が破損した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

石橋が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

山国川の増水のため、小祝河原から上博多方面は浸水家屋が500戸以上に達したため、中津警察署は消防員全員を招集して警戒にあたった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

30代の女性が5歳の長男を背負い避難していたところ激流に押し流され溺死した。一緒にいた30代の女性は救助され、今津病院に運ばれたが命に別状はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

石橋が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

木橋が破損した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

石橋が墜落した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

付近から流れ込んだ水が市街南部一帯、女子師範学校を孤立させた。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

路上2尺(60センチ)浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

市内で最も早く浸水した。浸水が路上3尺(90センチ)に及んだところがあった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

市内で最も早く浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

市内で最も早く浸水した。堀川裏、船頭町一帯の浸水は路上3~4尺(90~120センチ)におよんだ。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

市内で最も早く浸水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

付近から流れ込んだ水が市街南部一帯、女子師範学校を孤立させた。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

流木のために通路が塞がれたため各方面の郵便連絡が絶たれた。12日午前10時頃には洪水のため墜落、また橋の取り付け口の大分市地内道路2箇所で決壊が発生した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

河川の増水は12日午前3時頃にいたり激増氾濫し、街路には濁水が滔々として周囲は危険に瀕した。別府署では第一、第二部の消防隊を繰り出し朝見橋、新町橋そのほか各橋梁に流れ寄せた浮遊物を取り除くなど警戒につとめた。夜明け頃にはやや減水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

河川の増水は12日午前3時頃にいたり激増氾濫し、街路には濁水が滔々として周囲は危険に瀕した。別府署では第一、第二部の消防隊を繰り出し朝見橋、新町橋そのほか各橋梁に流れ寄せた浮遊物を取り除くなど警戒につとめた。夜明け頃にはやや減水した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

北浜より浜脇に至る海岸は逆巻く怒濤が数尺の防波堤を突破し、道路に打ち上がる濁潮は逆流して飛沫は数間の高さに奔騰四散して打ち寄せる浮遊木材、芥などなどがおびただしくその光景は凄愴を極めた。砂湯や海水浴場の建物はことごとくさらわれ、わずかに一部を残し無残な姿になった。

過日の暴風雨の際、怒涛に浚われたため、別府町では再築すべく15日それぞれ手配を行っているが、従前とは少し模様を変更し、2間に4間半建てのものを2間に10間建てとし、男女の浴場を区割りし、水道栓を設け、水の施設を設けるほかに外国人浴場を新設することとした。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

市内で最も早く浸水。付近は一帯に床上1尺(30センチ)以上、路上は3尺(90センチ)に及んだ。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

激しい風や波のため御幸橋下の護岸は二三十間ずつ崩壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

大野川の増水のため2、3本の杭を残すほか全部流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

駅付近の道敷が崩壊し、この駅以北は不通になった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

橋が墜落したため、13日より渡船による連絡を行った。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。岩田女学校前より武徳会、女子校前後税務署前、県立女学校西側などは満潮時、深さ3尺から4尺(90から120センチ)の浸水があり、午前11頃には警官隊が船で警戒にあたった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。岩田女学校前より武徳会、女子校前後税務署前、県立女学校西側などは満潮時、深さ3尺から4尺(90から120センチ)の浸水があり、午前11時頃には警官隊が船で警戒にあたった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

大分川の増水のために長池以東は川の水面と同じ程度に浸水し、学校内の賄い場などに多少の浸水があり水の中に孤立したような状態になった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

大道町方面は峠から流れ出す濁流を受け、さらに降雨増加につれ、濁流は刻々加わり、午前2時からは両側の溝から道路に水が氾濫し、4時頃になると水勢がますます激しくなり一帯の家屋はほとんど浸水した。大道町の監獄前から南方は路上1~3尺(30~90センチ)、床上1尺(30センチ)におよぶところが少なくなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

菡萏方面は海岸が比較的高いため、海水の侵入があったところは少なかったが、夜半から12日朝にかけて風や波が高くなり、桟橋の警防が切れたため、商船石炭艀舷3隻が沈没し、大分銀行や二十三銀行の各倉庫に海水が浸入した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。この時刻、中島方面から新川、長浜裏などは海水面と同じ程度浸水があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。この時刻、中島方面から新川、長浜裏などは海水面と同じ程度浸水があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。岩田女学校前より武徳会、女子校前後税務署前、県立女学校西側などは満潮時、深さ3尺から4尺(90から120センチ)の浸水があり、午前11時頃には警官隊が船で警戒にあたった。付近は最も早く浸水し、学校は濁水の中に孤立し刻々と増水してきたため寄宿生の全員は船で浜町の威徳寺に避難した。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。岩田女学校前より武徳会、女子校前後税務署前、県立女学校西側などは満潮時、深さ3尺から4尺(90から120センチ)の浸水があり、午前11時頃には警官隊が船で警戒にあたった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

トンネルが崩壊し豊州本線の中津~佐伯間は不通となった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

耶馬渓鉄道は青付近で岩石が崩壊し線路を埋没して不通となった。

耶馬渓鉄道の不通箇所復旧工事は着々進捗しているものの被害が大きなものもあって、目下樋田駅まで開通しつつあるが、全通までにはなお1、2日を要すだろうと。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)/7月17日】

大野川の増水により流失した家屋が少なくなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

罹災者は浜町の威徳寺、光西寺、常安寺、武徳会に各方面それぞれ収容し炊き出しを行っていたが、都合上、市街地は光西寺に収容することに決め、吏員を派遣し救護にあたった。12日午前10時に威徳寺に収容している数は15人で光西寺は刻々増加しつつあり34人を数えた。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

戸次巡査部長派出所の報告によると、7月11日夜に夜12時頃に白滝橋付近の増水が1丈8尺(5.4メートル)に達し、戸次市街地は全家屋(100戸)が浸水し、住民は妙祥寺に避難をさせた。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

鶴崎署の報告によると、鶴崎橋での増水が2丈5尺(7.5メートル)に達し、鶴崎町は全町で深さ4尺から6尺(1.2~1.8メートル)、床上では2尺から3尺(60~90センチ)浸水した。浸水家屋は合わせて600戸、流失家屋は4戸、船舶の流失1、電柱の倒壊3本、および橋の流出1(小中島橋)などの被害があった。

佐伯線鉄道敷設の際、大野川下流両岸の砂利採取の結果、11日、12日両日の暴風雨での鶴崎町の被害は意外に少なく、流失家屋1、堤防の決壊4、浸水田45町歩、暴風のため全壊家屋3、半壊3くらいにとどまり戸次、高田両村の被害に比べれば損害は極めて少ない。

14日夜までに炊出し救助を受けたのは18戸68名で、井戸は警察署、神宮、鶴崎駅、得丸善左衛門宅、倶楽部を除くほか、すべて浸水したため12日、13日両日より警察署より飲料水を配給している。戸次、高田、別府の孫村も同様に井戸の浸水があるとのこと。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)/14日4面(13日夕刊)/16日4面(15日夕刊)/16日7面(15日夕刊)】

中津署の報告によると、山国川の増水が1丈1尺(3.3メートル)に達し ※1丈7尺(5.1メートル)の記述もあり 小祝に通じる寿橋、小祝橋ともに流失した。

中津町役場にて応急手当として当分仮橋のままで交通することとなった。北門通寿橋は目下のところ修復未定。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)/大正7年7月17日】

トンネル付近の懸崖が崩壊し豊州本線の中津~佐伯間は不通となった。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日5面(12日夕刊)】

山国川の増水のため付近は浸水家屋が多数あった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日7面(11日夕刊)】

郡の土木技手の40代の男性が水害状況の視察のために橋を通過中、橋が墜落し濁流に押し流されて行方不明になった。安岐川は1丈3、4尺(3.9~4.2メートル)の増水だった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日7面(11日夕刊)/7月14日3面(13日夕刊)】

付近で下水道が溢れて、濁水が家屋に侵入したところもあったが11日午前中では大きな被害はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日7面(11日夕刊)】

宇佐参宮鉄道の線路付近は洪水のため約50間(90メートル)破壊して、11日午前8時35分高田発の列車より不通になった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日7面(11日夕刊)】

降雨のために巡査駐在所裏手に山崩れが発生。駐在所の建物を押し倒して、点灯中のランプを破壊したため建物が焼失。死傷者はいなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日7面(11日夕刊)】

高橋幸吉氏所有の酒蔵後方の土堤が崩壊し、倉庫が破壊されたために清酒約50石が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

大湯鉄道の鬼瀬停留所付近の手向山が崩壊し、300貫くらいの大石が5、6個線路を破壊したため爆薬を用いて復旧作業を行った。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

前日来の降雨で増水が甚だしく11日午前8時30分より堤防の一部が決壊しつつある旨、高田警察署に電報があった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

小野屋付近では増水が7尺(2.1メートル)に達し、橋詰の一部が決壊し、警察用の電話柱が倒れたものがあった。12日には出水は1丈2尺(=約3.6メートル)におよび新連川橋および家屋が流失、堤防が決壊し田畑の被害が多く汽車郵便は不通になった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

山国川は柿坂付近で1丈(3メートル)あまり増水して付近の稲田は雨のために洗い流されたところもある。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日7面(11日夕刊)】

発電機の重要局部が燃焼し故障した。復旧にとりかかったものの停電が発生。火力発電で電力を補うよう進めたが煙道への浸水が甚だしく、石炭を燃やすことができなかったため、11日午後1時頃まで停電。(別大)電車も軌道各所に立ち往生してしまった。通電するとともに運転は復旧したが、昼間は電灯が消えたままになった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

小学校の校庭が埋没し校舎が1棟破壊した。終業後だったために人的な被害はなかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

崖の崩壊があって家屋1棟が押しつぶされた。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

浸水家屋が10戸出た。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋が墜落し、郵便物の配送に支障が出た。13日より渡船による連絡を行った。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

道路が長さ4間(7.2メートル)にわたり大野川に崩落し交通が途絶した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋手前の崖が崩落し、人車馬の交通が途絶した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

橋付近の崖が崩落し、人車馬の交通が途絶した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

架替工事中の鶴崎橋は東岸から4本、橋脚が押し流された。損害額1000円。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)面/7月13日夕刊1面】

安岐高田道に架かる橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

道路面の浸水が激しかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

道路面の浸水が激しかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

道路面の浸水が激しかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

4尺(1.2メートル)あまり浸水した。13日より渡船による連絡を行った。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

トンネル入り口の天井が崩落し車馬の交通が途絶した。歩行者は徒歩で通行することができる。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

住宅裏の山地が崩壊し、家屋1棟が倒壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

11日は深さ3尺(90センチ)の濁流が流れ込み田畑を襲った。12日午前7、8時頃には満潮と重なり市内は最も広範囲に深く浸水した。この時刻、中島方面から新川、長浜裏などは海水面と同じ程度浸水があった。大分警察署は消防組を呼集し、一面の軍隊の応援を得て付近の浸水家屋に対しては沖の浜及び船頭町の漁船を徴発して住民97名を救助し、光西寺、武徳会、威徳寺に収容し、大分市当局と交渉して炊き出しを行いつつある。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)/7月13日5面(12日夕刊)】

道路面の浸水が激しかった。(若宮神社はこの年の7月に上の町へ遷座した)

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

道路面の浸水が激しかった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

トンネル入り口の線路両側の切り取り約100坪が崩壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊】

九州水力電気会社(現在の九州電力大分支社)前から東新町に突き当たるまでの外堀一体の田んぼ面は瀬をなすほどの濁水に大河のような観を呈していた。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

大道町の裏手から聯隊に至る広漠たる田んぼ面は濁水が波打って漫々たる湖水のようで、聯隊通りは浸水3尺(90センチ)あまりに及んだ。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

鉄道踏切から大和組(=大和組豊後製糸、現在の上野ヶ丘中学校の位置にあった)に至る道路面は濁水に満たされ十数軒の浸水もあった。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

大分県立病院の西側、毘沙門川に架かる長さ2間あまりの土橋が流失した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

大分市中は下水があふれて、南部の小物座町、檜物町などの低地は川のようになった。

【出典:大分新聞 大正7年7月11日7面(10日夕刊)】

大分市中は下水があふれて、南部の小物座町、檜物町などの低地は川のようになった。

【出典:大分新聞 大正7年7月11日7面(10日夕刊)】

金谷と勢溜を除くほかは通行人はももまで洗われる有様だった。金谷土堤が水に浸かり、中津市街地はほとんど3分の1以上浸水した。

小祝河原から上博多方面は浸水家屋が500戸以上に達したため、中津警察署は消防員全員を招集して警戒にあたった。

【出典:大分新聞 大正7年7月11日7面(10日夕刊)/13日5面(12日夕刊)】

幸崎駅付近の約55鎖(1100メートル)が約3尺(90センチ)浸水し、10日午後5時10分大分駅発894列車が幸崎駅で進行を中止、6時に大分駅へ引き返した。11日正午までには減水せず、線路がおびただしく破損しているため復旧の見込みは立っていない。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)】

トンネル入口付近の切り取りが崩壊した。いったんは11日夜に開通したが、その後再び崩壊した。

【出典:大分新聞 大正7年7月12日4面(11日夕刊)/7月14日夕刊4面】

雨が続き市中の出水が甚だしく、市役所は警察署と協力して消防隊の五部(駄ノ原・生石)、六部(元町・上野)を除くほかは全員出動させ、救護事業にあたらせた。第一、第二消防隊は12日午前10時になっても朝食がなかったので、市は共楽亭に命じて炊き出しを行った。12日は市内と山南部との交通が全く絶たれたため、和船2艘をもって、元町方面から市の東部を迂回して古国府に至る間の連絡を保っている。

【出典:大分新聞 大正7年7月13日夕刊1面】

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