被害【昭和16年9月台風第25号】佐伯市下久部
|災害番号:004710|固有コード:00471083
- 市町村
- 佐伯市
概要(被害)
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
災害概要
大分県下の総被害(死者29人、傷者50人、行方不明4人、家屋全潰277戸、同半潰1155戸、同流失412戸、同床上浸水8535戸、同床下浸水12207戸、橋梁流失277件、同破壊85件、堤防決潰381ヶ所、堤防破損148ヶ所、道路損潰1151ヶ所、船舶流失114隻、港湾破損37ヶ所)その他農倉の浸水により、倉内の米麦合せて4835俵の被害を出し、農地浸水、その他により農作物の被害は3割減収の見込み。又今回の暴風雨では、豪雨のため次のような特殊災害を引き起こした。
豊肥線中判田‐竹中間、鉄橋に於ける惨事。
1日午前10時19分大分駅を発車した豊肥線上り510列車が乗車4輌を牽引して午前10時40分頃中判田‐竹中間鉄橋にさしかかった際前夜来の豪雨のためゆるんでいた鉄橋袖石垣附近が突然崩潰したため、列車は河中に転落、機関車は後部を上流に向け橋上に横倒しとなり1輌から3両目までの客車は、上流側の河中に横転しに沈没、4両目は危く難をまぬがれた。鉄橋上の枕木や軌條は悉く刎ね飛ばされ橋桁のみが残って濁流に洗われ惨状を呈した。死者170名、傷者30名、遭難者200名。(編集者注:この数字は誤りである。)
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
【出典:1941/10/01 6:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 972.9hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1941/10/1 15:00
- 最大風速の風向
- -
- 最大風速
- 16メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1941/10/1 8:00
- 累積最大降水量
- 422.3ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 津房
- 日最大降水量
- 263.1ミリ
- 日最大降水量観測地
- 今市
- 最大日降水量の観測年月日
- 1941/9/30
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- -
- 死者・行方不明者数
- 77人
- 負傷者数
- -
- 住家全壊/全焼数
- 689戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 1155戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- 8535戸(棟)
- 床下浸水数
- 12207戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 1151か所
- 橋梁被害
- 362か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- -
主な被害
マップを見る橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
臼杵町の40代の男性が県道の舗装工事用の枠板を整理している最中に、誤って深みにはまり濁流に押し流され死亡した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
山水館をはじめほとんど全部の旅館、商店は水浸しとなり倒影湖や付近の稲田は一面の泥海となった。
住宅27戸が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
橋が流失。「全く影も形ちもなくその跡さえ見当がつかぬ」ほどの様子だった。また隣接の桂小橋も流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
中津市金谷中の丁に住む80代の女性が市内宮永へ向かう途中、中学校横の増水した場所で遭難し溺死した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
桂川の増水により橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
桂川の増水により橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
家屋の破損がはなはだしく、製竹工場のトタンぶき2棟150坪が全部倒壊して、損害7、800円の見込み。また稲作はほとんど倒伏して相当の減収とされている。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
桂川の増水により橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
桂川の増水により橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
桂川の増水により橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きく、家屋57戸が流失した。川原の10戸は根こそぎ跡形もなくなった。上流に製材所の材木置場があったため出水時に無数の材木が流れ込み突入したたため、路地裏に至るまで数百本の材木が食い込んでいる。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
住宅10戸が流失、4戸が倒壊、10戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
山口県宇部港より大阪市へ石炭145トンを積み込んだ兵庫県の発動機船が姫島沖合の笠戸島の中間にさしかかった際、暴風雨に遭い沈没。船長以下、乗組員4人は伝馬船で避難していたところ伝馬船も転覆。2人は近くに停留していた漁船に救助されたが3人は行方不明になった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
増水が10尺(約3メートル)に達し、橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
浸水被害が特に大きかった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
30代の男性が漁船を係留しようとして転落、船の間に挟まれて頭部を負傷し、その後死亡した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
住宅2戸が倒壊、70戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
村長の60代の男性と70代の姉が家と一緒に押し流され行方不明になった。村内では長岩屋集落を中心として住宅24戸が流失、水田15町歩が泥に埋まった。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
学校が浸水し奉安殿が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月4日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
佐伯市では特に池船区が危険となったため、住民180人は大日寺に避難した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
50代の女性が溺死した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
40代の製材業の男性が溺死した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
台風のため、第7警防団の団員の40代の男性が溺死した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
番匠川および各河川の増水が3メートル25センチに達したため、佐伯市内に濁流が押し寄せた。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
藤原区、土井の内区、脇区、上岡区、長瀬区、上久部、下久部、蛇崎、池船、向島一帯、女島、長島、中村、常盤通り一帯、田の浦区、葛港区で1300戸の住宅が倒壊、5戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日朝刊3面】
浸水家屋が相当の数にのぼった。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
浸水家屋が相当の数にのぼった。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
浸水家屋が相当の数にのぼった。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
暴風のため、住宅が倒壊し、病気で床についていた50代の女性が死亡した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
橋が流失、付近の堤防2か所が決壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
(別大)電車の終点に新築中の2階建ての材木店が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
浸水家屋が相当の数にのぼった。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
浸水家屋が相当の数にのぼった。
【出典:大分新聞 1941年10月3日夕刊2面】
150戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
500戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
浸水の被害が特に大きく、水が軒まで達した場所もあった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面、10月3日朝刊3面、10月4日夕刊2面】
浸水の被害が特に大きく、水が軒まで達した場所もあった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面、10月3日朝刊3面、10月4日夕刊2面】
浸水の被害が特に大きく、水が軒まで達した場所もあった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面、10月3日朝刊3面、10月4日夕刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
全戸浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
住宅全戸が浸水し、住民は避難した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
1日午前6時ごろ海岸で漁業中の10代の男性が溺死した。また警戒にあたっていた警防団員1人が殉職。住宅の浸水はおよそ2000戸に達し、明治26年以来の大水害となった。特に上博多町、金谷本町、東西堀端、外馬場の材木街が被害が大きく、水が軒まで達した場所もある。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面、10月3日朝刊3面、10月4日夕刊2面】
浸水の被害が特に大きく、水が軒まで達した場所もあった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面、10月3日朝刊3面、10月4日夕刊2面】
浸水の被害が特に大きく、水が軒まで達した場所もあった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面、10月3日朝刊3面、10月4日夕刊2面】
封戸村、深耶馬渓村などで6戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
封戸村、深耶馬渓村などで6戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
10代の男性1人が溺死した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
武蔵町、安岐町、西安岐町、来浦町、国東町、西武蔵村で150戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
20戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
32戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
武蔵町、安岐町、西安岐町、来浦町、国東町、西武蔵村で150戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
流失田畑20町歩、浸水田畑120町歩、浸水家屋560戸、護岸破壊2000間、流失家屋65戸、半壊家屋30戸、橋梁流失6件、防波堤決壊4件、船溜護岸決壊2件、河川護岸決壊2000間、溜池決壊1などの比嘉が出た。
【出典:大分新聞 1941年10月4日夕刊2面】
貨物船が1隻流出、地すべり30坪、住宅2戸が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
武蔵町、安岐町、西安岐町、来浦町、国東町、西武蔵村で150戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
武蔵町、安岐町、西安岐町、来浦町、国東町、西武蔵村で150戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
武蔵町、安岐町、西安岐町、来浦町、国東町、西武蔵村で150戸の住宅が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
住宅5戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
高さ2間半くらいの土堤が崩壊し、国東鉄道が不通になった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
9月30日午後6時ごろ、大分川に設けてある梁に魚拾いに行った3人が、1日午前4時半まで現地にいるうちに豪雨で河川が増水し、その高さ4尺(1.2メートル)に達したため押し流され行方不明になった。また1日午前10時ごろには別の男性が近くの龍原川へ「濁り掬い」という魚とりに出かけ、行方不明になった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
稲葉川の増水が激しく、家屋の倒壊、道路の破損、橋梁の流失や崖崩れの被害が著しかった。浸水家屋は200戸に及んだ。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日朝刊1面】
住宅1戸が倒壊。10戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
小野屋警部補派出所裏の崖が地すべりを起こし、稲田が埋没。付近一帯は崩壊の危機にひんした。また別の場所でも崖の崩壊のため、付近の7戸が崩壊のおそれがあり、そのうち3戸は家財道具を安全な場所に運んだ。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
同尻橋付近の大分川は8尺(3.2メートル)増水、住宅40戸が浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
2戸の浸水家屋があった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
9月30日午前7時半ごろ県立竹田高女の女子生徒1人が登校の途中に増水した稲葉川の濁流に押し流され行方不明になった。その後10月2日正午ごろ大野郡緒方村野尻で遺体で発見された。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面、10月3日朝刊3面】
付近一帯は多数の浸水家屋を出した。また町内いたるとことで板塀や看板が倒壊したところがあり、農作物の被害も相当の被害が見込まれる。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
橋桁の中央部2か所が流失した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
渡船2艘が流失、被害額150円。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
染め物工場1棟が倒壊した。損害額500円。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
大分川は4メートル増水。賀来橋は危険になり警防団員が警戒にあたった。付近の住宅は約50戸が床下浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
片倉製糸会社から西新町踏切まで約300戸が浸水した。また大道5丁目では物置が倒壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
付近の毘沙門川の堤防が決壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
付近の毘沙門川の堤防が決壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
上流の明磧橋は5メートル40センチ増水し、大分川の堤防が一部決壊した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
住宅2戸が倒壊し、3戸が倒れかけた。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
別府警察署は地下室に海水が流れ込み、留置人を階上に避難させた。昭和10年9月以来の浸水だった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
1日午前10時、倉庫にあった米のうち150俵が浸水のためずぶ濡れになり、付近の18戸も床下浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
90戸の家屋が床下浸水した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
川が1メートル増水。大分港の漁船は15〜16艘が港内を漂流し、うち6艘は大破した。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
掘割の一部が決壊し、自動車が不通になった。また峠では店頭が壊れたところがあった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
祇園橋付近の区民3人が濁流に飲まれ行方不明になった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
朝見川、河内川氾濫のため、蓮田や浜脇一帯は床上浸水1尺(30センチ)におよぶところもあり、被害戸数は相当広範囲にわたった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
朝見川、河内川氾濫のため、蓮田や浜脇一帯は床上浸水1尺(30センチ)におよぶところもあり、被害戸数は相当広範囲にわたった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
別府の海岸地帯では防波堤を高波が越え、電車線路にまで漁船の破片や木材、ゴミなどを打ち上げ、別府〜亀川間は不通になった。また激しい波で鶴水園アパートや工芸指導所は建物を破損。清風荘、花菱など海岸地帯の旅館はガラスが破れ、屋内が浸水したところも多かった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
9月30日は午前8時ごろから雨が降り始め、終日止むことなく、夜になって雨脚は強くなり降り続いた。翌10月1日には激しい風も吹きはじめ、午後1時には川の増水が著しくなり、高田警察署に協力を行うため、警防団を非常招集。さらに午後1時半には翼賛青年団も出動し警戒にあたった。午後2時になってさらに激しく増水し、玉津上町や中島の家屋は浸水しはじめたので、各隣保班に連絡し、すぐに避難を開始させた。警察署長以下、署員全員は柔道着1枚を着て、警防団員を監督し励まして、敏速勇敢に危険区域にいる住民をロープを使って救出を行った。これより前に国民学校の生徒は訓導(教師)が付き添いそれぞれ帰宅させていた。避難完了を待って桂橋の通行を禁止した。水の勢いはいよいよ増して水位は2丈4尺(約7.2メートル)に及び、雨や風は荒れ狂いあたり一面泥の海になった。水取と大小路の浸水が特に激しく、是永町、鍛冶屋町、濱町、金谷町、横町、宮町、新町がこれに次いで被害が大きかった。新地新開方面もまたほとんど浸水した。玉津方面の上町、中島は激しい水の流れに飲み込まれ、流失した家屋は12戸23棟に及び、中町、下町がこれに次いで、磯町、志手町も浸水した。桂川上流の、鼎、払田、雷川原方面の被害は激甚で、11戸28棟の家屋が流失した。田が流失して元の姿をとどめなかった場所が10町あまりに及んだ。高田町の景勝地である桂橋は激しい流れによく耐えたものの、流れてきた家屋や流木によって午後4時に流失した。完成から20年後のことだった。午後4時半ごろに雨が止むと水の勢いは衰えてきた。浸水地域からも水が引いてきた。増水からわずか2、3時間で床上浸水の家屋800戸あまり、床下浸水は400戸あまり、浸水した井戸は300あまりにも及び、高田町始まって以来の未曾有の惨事となった。
【出典:高田町水害写真帖】
昭和16年10月1日は暴風雨が予想されたため、西都甲国民学校は午前中で授業を切り上げ、生徒は教師付添のもと帰宅することになった。長岩屋集落を担当することになった桑野繁訓導(先生)は50数名の子ども引き連れ川の上流へむけ進んでいた。学校から4キロほどの場所にある田口橋に差し掛かった。橋は長さ4間(約7.2メートル)、幅1間(約1.8メートル)の木橋で、橋の中央にに鳥居形の橋脚があり支えていた。流れる長岩屋川の水かさは橋脚の8分めくらいに達していた。桑野訓導は対岸に住む3人の子どもを送り届けるため、初等5年生の女子と初等6年生の男子を左右の腕で自分の身に引き寄せ橋を渡り始めた。高等2年生の女子は後ろからついてきていた。橋の3分の2を渡り終えようかというところ、流れてきた材木が橋脚に当たり、橋は真ん中から「く」の字になり折れた。3人の子どもは川に投げ出され、姿が見えなくなった。まもなく後ろをついていた高等2年生の女子は流木につかまり20間(約36メートル)下流の川岸に流れ着き助かったが、桑野訓導と2人の子どもは遺体となって下流で発見された。桑野訓導の遺体は橋を渡る際に子どもを抱えたときのままだったため、教師として職務を全うしたことを讃えられることになった。10月11日には西都甲国民学校の運動場で村葬が執り行われた。
西都甲村耕地整理組合の水深70尺(約2.1メートル)の溜池が決壊。濁流が長岩屋川、都甲川、桂川と上流から下流へ流れ込み、家屋や田畑の大規模な浸水を引き起こした。
暴風雨による三畑池の決壊により、本堂、鐘楼、鳥居、車橋、石造仁王、護摩堂、巨椋の木、国東塔などが流出した。水害の後、本堂は木造阿弥陀如来立像を埼玉県の鳥居観音に売却した金銭によって昭和36年に再興された。身濯神社・講堂については、一段高い場所にあったことが幸いして、洪水の影響を受けなかった。
【出典:天念寺耶馬及び無動寺耶馬 名勝調査報告書(豊後高田市教育委員会)】
堤防12か所決壊、中野橋が流失し、1日午前10時頃には水道橋、県立治療院付近、各橋梁が危険になったために国民学校ではいちはやく児童を帰宅させ、警防団、隣保班総出で警戒に務めたが、第5分団員の50代の男性が濁流に飲まれ行方不明になった。
【出典:大分新聞 1941年10月2日夕刊2面】
午前10時19分に大分駅を発車した豊肥本線上り510列車が、客車4両を牽引し、午前10時40分頃に中判田〜竹中間の鉄橋に差し掛かった際、前夜からの豪雨のためにぬかるんでいた鉄橋の袖石垣付近が突然崩壊。列車は川の中に転落、機関車は後部を上流に向け橋の上に横倒しとなり、1両めから3両めまでの客車は上流側の川の中に横転し沈没。4両めのみが難を免れた。鉄橋上の枕木やレールはことごとくはねとばされ、橋桁のみが残って濁流に洗われた。死者44人、負傷者72人が出た。
赤井ケ谷池から流れ出た水流が土石流となり、ほぼ真下に達し、水田が土石に埋まった。その後水田は整地され、現在は使用されている。現在の水田の真上にあった棚田は扇状に土石で埋まり、土石を除去することは止め、現状は植林によりくぬぎ林になっている。溜池にほとんど水が溜まってない状態だったが、短時間に集中豪雨が降り、放水路からだけでなく、池の堤を越えた水が谷を下り、谷の底・側面に敷いた石畳・石垣を破壊、土石流となり、棚田を埋めつくしたと考えられる。
【出典:国見町郷土史研究会 末綱巌さんの報告による】