大分県災害データアーカイブ|大分大学減災・復興デザイン教育研究センター(CERD) NHK大分放送局 × 大分大学減災
復興デザイン教育研究センター(CERD)

被害【昭和18年9月台風第26号】大野郡川登村岩屋 天災復興碑

|災害番号:004810|固有コード:00481003

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市町村
臼杵市

概要(被害)

天災復興碑
天災来ル天災来ル時ハ昭和十八年九月二十日ノ払暁南九州ニ上陸セル台風ハ豪雨ヲ伴ヒ我川登村ニ襲来シ為ニ死傷者十五名流失家屋三十七橋梁ノ流失十八田畑ノ埋没流失四十七町歩ノ広キニ及ブ村ニ於イテハ直チニ村役場ニ復興本部ヲ設置シ村長波津久雲溪氏指揮ノモトニ復旧ノ対策ガ講ゼラレタ吾清水原ハ明治二十七年以上ノ大水害ヲ受ケ十四町歩ノ美田ハ白川原卜化シ恰モ黄熟シタル水稲ハ殆収穫皆無トナル此時村議大津留源一区長高畑万平副区長亀山竹雄氏等ヲ中心ニ復興ノ計画ヲ樹立耕地整理組合ヲ組織シテ復興ノ促進ヲ計ルコトニ決定シ全区民協力一致敢斗ノ結果工程着々進行シタノデアルガ天公無情翌二十年ノ夏亦モヤ大暴風雨ノ襲来ニヨッテ再ビ大水害ヲ被リタル然レドモ区民愈々勇気ヲ振ヒ起シ復興へ復旧へ卜邁進シ不撓不屈全耕地ノ復活農道ノ新設沈ミ橋ノ築造栗林井堰ノ改築堤防ノエ築等悉ク完成ヲ見ルニ至レリコレニヨル工費 円耕地整理実測面積十三町七反従業延人員 名ニ及ブ 茲ニ工ヲ起コシテヨリ五ヶ年全区民渾然一体トナツテコノ天災復興ノ大事業ヲ完遂シ明朗ナル新清水原ヲ建設シタルヲ祝福シ記念スルタメ区民相計リ天災復興記念碑ヲ樹テ後世ニ伝ヘントスルモノデアル
昭和二十二年十月誌之  文広田四郎

【出典:野津町誌】

大野郡川登村岩屋 天災復興碑

災害概要

大分県下の総被害(死者240人、傷者126人、行方不明78人、家畜死亡1,707匹。家屋流失624戸、同全壊811戸、同半壊2,187戸、同床上浸水14,321戸、同床下浸水15,675戸、稲田冠水14,536町歩、畑冠水2,164町歩、倉庫内米損害1,647俵、倉庫内麦損害10,802俵、道路決潰993ヶ所、堤防決潰360ヶ所、田畑流失1,157町歩、船舶流失沈没161隻、木材流失24,723才、橋梁流失284件、鉄道沿線被害93件、列車運転休止)今回の風水害は、去る7月下旬のそれにも増して激しく、全県的に土砂崩潰、家屋、橋梁の流失、浸水、道路、堤防の決潰多く、わけても大野の大氾濫による流域の被害、国東方面、南、北海部郡の被害は特に甚大だった(大分合同新聞記事)

【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】

【昭和18年9月台風第26号】

【出典:1943/09/20 6:00の天気図】

災害データ

最低気圧
987hPa
最低気圧観測地
-
最低気圧観測日時
1943/9/20 11:00
最大風速の風向
北西
最大風速
19メートル
最大風速の観測地
大分
最大風速の観測日時
1943/9/20 12:40
累積最大降水量
1016.5ミリ
累積最大降水量観測地
佐賀関
日最大降水量
818ミリ
日最大降水量観測地
佐賀関
最大日降水量の観測年月日
1943/9/19
最大1時間降水量
-
最大1時間降水量の観測地
大分
最大1時間降水量の観測年月日時間
-
死者・行方不明者数
296人
負傷者数
-
住家全壊/全焼数
1041戸(棟)
住家半壊/半焼数
2602戸(棟)
住家一部損壊数
-
床上浸水数
19824戸(棟)
床下浸水数
21522戸(棟)
道路被害 ※事前通行規制は除く
993か所
橋梁被害
360か所
山・崖崩れ
-
被害総額
-

主な被害

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専想寺に避難をした方の体験談。
専想寺では本堂まであと50cmのところまで水位が上がった。
流されてきた家が境内のムクノキに引っかかった。
翌日の昼頃には水が引いていた。

大南老人いこいの家敷地内にある案内板
昭和18年9月台風第26号によって発生した洪水の水位や被害の詳細が示されている。水位は現在の地面より2.2m。
倒壊家屋30戸、死者11名を出す大惨事であった。

[学生CERDの感想]
地域住民の交流の場に設置されており、過去の災害について多くの人に知ってもらうことができる案内板となっている。

【出典:案内板】

大分市大字中戸次 戸次の大水(洪水)

楠木生八幡神社の入り口付近にある水位標
昭和18年9月台風第26号によって発生した洪水の水位高が記録されている。水位は標高14.307mに到達した。
併せて昭和20年9月台風第16号、昭和36年10月の大雨によって発生した洪水の水位高も記録されている。

[学生CERDの感想]
3つの洪水の記録があることによって被害の度合いを比較することができた。その中でも昭和18年の水位高の記録から被害の甚大さが伺えた。

大分市大字下戸次 洪水時の水位高の記録

宇佐市出光地区の八坂神社の参道脇に2023年9月20日に建立された石碑。
1943(昭和18)年9月20日に発生した大規模な土石流により、八坂神社周辺の集落が被害を受けた。
災害発生当時の新聞には死者27人と記載されているが、近くの寺の過去帳によれば、出光地区の死者は29人であった。
また、八坂神社の本殿は土石流により流失したが、石碑のそばにある鳥居は被害を免れた。

【碑文】
 昭和一八年(一九四三年)大分県下を襲った台風二十六号は、九月二十日、宇佐市の旧北馬城村出光地区に「山津波」を発生させました。道路・河川・田畑などに甚大な被害をもたらしただけでなく、多くの家屋をのみ込み、二十九人もの尊い命を奪いました。
 太平洋戦争中だったこともあり、新聞にも大きくは取り扱われませんでした。故に、近代の宇佐市災害史上最悪の大惨事にも拘らず、宇佐市史に記録されることもなく、多くの市民の記憶から消え去ろうとしていました。
 しかし、二十三年前、こうした史実を掘り起こし記録したのは、「北馬城の昔をたずねる会」の皆さんでした。その活動に対して改めて敬意を表します。
 令和五年はこの災害から八十年目の節目の年に当たります。犠牲となられた方々に謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、災害の実相を伝承するとともに、その風化を防ぎ、防災・減災対策の強化及び防災意識向上を図るため、ここに石碑を建立します。
令和五年九月二十日
遺族関係者一同
出光自治区

【出典:碑文・宇佐市出光自治区】

宇佐市出光 山津波伝承碑

大刈野の急性型地すべりは規模が大きく、豪雨後1,2日へた晴天の日に発生している。番匠川を堰きとめて天然ダムをつくり、500m上流の新開部落の小学校校舎を浮上し、2.5~3Km上流に逆流させ、樫ノ峯部落の下流1Kmのところでとまった。天然ダムはその後きれて下流に大水害を与えている。奥畑の原におこった急性型地すべりは一家5名を生き埋めにし、戸主はいまもなお行方不明である。

【出典:日本の国土 : 自然と開発 下(小出博,東京大学出版会, 1973)】

70代の男性、60代の女性1人が死亡した。

【出典:大分新聞 1943年9月29日朝刊3面】

土砂が崩壊。国道や鉄道線路の埋没で、国道や鉄道、通信網もいっさい途絶えてしまった。21日午後1時、立石町は緊急町会をを開いて災害復旧対策を協議した。22日には、町民を総動員して立石峠の鉄道線路と国道の復旧作業に着手した。昼夜兼行の奮闘のかいあって23日午前中には、早くも列車の開通を見ることができた。作業に当った人数は、のべ2000人に及んだが、食事は、すべて婦人会員の炊き出しによってまかなわれた。23日には和泉少将の指揮する速見郡在京軍人会員800人が駆けつけ国道の復旧作業に当ったが、作業は困難を極め車馬が通行できるようになったのは10月3日であった。

【出典:山香町誌(山香町誌刊行会、1982)(おおいた石造文化研究会 松原保則氏の報告による)】

立石峠の土砂が崩壊し鉄道が不通になったため、立石駅には乗客150名を乗せた列車が立ち往生した。太平洋戦争中のことであるから乗客の中には多くの応召兵も含まれていた。立石駅付近の街は浸水し濁流が洗っていたが、立石町長は、婦人会員を召集して炊き出しをし、列車の乗客に配給した。

【出典:山香町誌(山香町誌刊行会、1982)(おおいた石造文化研究会 松原保則氏の報告による)】

山崩れによる土石流によって流失した。

【出典:分教場の跡を訪ねて その3 : 本匠西小学校 山部分校 樫峯分校,高司良恵,佐伯史談172,1996.6)】

向野川の鉄橋が流失。また付近の線路や築堤の決壊が約500メートルに達した。

【出典:大分新聞 1943年9月27日朝刊3面】

死者7人を出した。

【出典:大分新聞 1943年9月29日朝刊3面】

40代の男性1人が死亡した。

【出典:大分新聞 1943年9月29日朝刊3面】

20代の女性1人が死亡した。

【出典:大分新聞 1943年9月29日朝刊3面】

死者1人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

校舎1棟が流失した。

【出典:大分新聞 1943年9月26日朝刊4面】

40代の女性が行方不明になった。

【出典:大分新聞 1943年9月27日朝刊3面】

50代の女性が行方不明になった。

【出典:大分新聞 1943年9月27日朝刊3面】

橋が流失した。

【出典:大分新聞 1943年9月27日朝刊3面】

死者3人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

死者1人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

死者12人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

死者9人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

死者7人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

死者8人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

19日から20日にかけて番匠川など河川が増水。20日午後2時頃には市内で軒下浸水1000戸あまりとなり、死者13人を出した。現地では警防団が平屋の住民をほかの2階建ての家へ避難させるなどした。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

死者10人を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月25日朝刊2面】

住宅の流出29戸を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面】

住宅の流出5戸を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面】

住吉海岸が4か所90間にわたり決壊。住宅の流出9戸を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面】

長さ60メートルの鉄筋コンクリート造の橋が真ん中から折れ、橋のたもとから両岸に並ぶような形になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面】

子ども2人が崖崩れのために死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日夕刊2面】

死者行方不明者18人、住宅の流出32戸を出した。高田村の主要な産業である野菜畑は中鶴瀬集落付近で3〜5尺の(1.2〜1.5メートル)砂利に埋まり、半数の約100町歩は3〜4寸(9〜12センチ)の泥で覆われ収穫を迎えたごぼうはほとんど全滅した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面】

死者行方不明者11人、住宅の流出52戸、全壊6戸を出した。中戸次の死者は8人に達した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面】

住宅の流出18戸を出した。乙津集落では70代の男性1人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面、9月29日朝刊3面】

住宅の流出12戸を出した。成松集落では50代の女性1人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月23日朝刊3面、9月29日朝刊3面】

1戸が流出。8人家族中7人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

久住鉱業所精錬工場が倒壊したため、作業中の女性1人が圧死した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

山滑りのため3戸が倒壊、1人が圧死した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

山滑りで住宅3棟が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

家屋が流出し、60代の男性が行方不明になり、2家族5人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

住宅の倒壊により、家族4人が死亡した。また別の場所では親子2人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

土砂が崩壊。親子女性2人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

土砂が崩壊。男性2人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

50代の男性が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

7戸12棟が流出、5人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

住宅が流出。家族3人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

台風のため住宅が流出。家族3人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

月瀬川(寄藻川)の増水を警戒中の警防団の副団長が流れに飲み込まれ行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

円通寺道路を通行中の警防団員が、激流にさらわれ行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

住宅が流出し、家族5人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

住宅倒壊1、非住宅倒壊1の被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

集落の山が幅50メートル、高さ100メートル(約3町歩)にわたって流出。住宅6戸が巻き込まれ27人が死亡した。

【出典:北馬城の昔をたずねて(北馬城の昔をたずねる会)】

宇佐郡北馬城村出光

池が決壊。向野川が増水し、下流の北馬城村が浸水した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

保線工1人が寄藻川の水深を測定中に誤って川に転落し即死した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日朝刊3面】

住宅が倒壊して2人が死亡したと見られる。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

住宅が倒壊し家族6人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

裏山が崩壊。住宅が巻き込まれ1人が圧死、2人の負傷者を出した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

住宅流失3、半壊1の被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

住宅裏の崖が崩壊して1軒が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

橋のうち約40間(72.7メートル)が損壊し流失した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

男性(香々地国民学校教員)が登校中に小川を渡っていたときに溺死した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

3人が負傷、住宅3戸が流失。被災者490人を寺院、学校に収容し炊き出しを行った。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

裏山が崩壊し家族3人が圧死。また別の場所では住宅2戸が倒壊し死傷者がいる見込み。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

200戸の住宅が浸水した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面】

家屋が倒壊、40代と20代の女性2人の親子が圧死した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

軒下まで浸水し70代の男性が溺死した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

台風のため、裏山が崩壊。住宅が倒壊し男性2人の親子がそれぞれ重傷、軽傷を負った。

【出典:大分合同新聞 1943年9月22日夕刊2面】

大野川の堤防が決壊。下流の鶴崎町、三佐村、桃園村乙津の一帯4000戸が浸水した。大野川は明治26年の洪水の水量を基準に、以降50年の水勢を調査して河川改修工事を行い、さらに大洪水のときより4尺(1.2メートル)も高く堤防を築いていた。堤防近くの鶴瀬集落は10数戸が一気に押し流され、7人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面、9月29日朝刊3面】

大分郡高田村鶴瀬

四日市高女へ登校中の10代の女性2人が橋と一緒に押し流され行方不明になった。その後午前9時までに遺体が発見され収容された。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面】

北浜海岸で漁船の陸揚げ作業中の男性が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面】

山崩れが発生。住宅が巻き込まれ家族8人中4人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面】

豊肥線の滝水〜豊後荻間で乗客、乗員あわせて42人が乗車した大分行き705列車が築堤の流失により約30メートル下の谷に転落。乗客2人が即死、36人が重軽傷を負った。

直入郡荻村臼井迫

豊肥線菅尾〜犬飼間を走行中の下り757貨物列車は、切り取り面の土砂が崩壊したため機関車と貨車1両が埋まった。三重町駅の線路班、付近の警防団の応援により救助を行った。

【出典:大分合同新聞 1943年9月20日朝刊3面】

台風のため、梁の漁獲状況を見に行った10代の男性が行方不明になった。川の激流に飲まれたものと見られている。千歳村では死傷者4人を出したと言われている。

【出典:大分合同新聞 1943年9月20日朝刊3面】

裏山が崩壊し住宅が巻き込まれた。2家族7人は生き埋めとなり救出作業を行ったが4人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面】

住宅の裏山が崩壊。倒壊した家の女性2人がそれぞれ重傷、軽傷を負った。

【出典:大分合同新聞 1943年9月21日朝刊2面】

150軒全戸が軒下まで浸水した。1人が行方不明になった。

死者行方不明者18人。そのうち鶴崎集落では死者6人を出した。住宅の流失40戸、全壊は千数百戸に達した。堤防の決壊により町には避難命令が出された。町役場は高さ7尺(およそ2.1メートル)浸水。2階建てではない家や低地の家の住民は鶴崎神宮や鶴崎クラブに避難して難を逃れた人も少なくなかった。町立中学校は倒壊、流失し椅子300脚中270脚が流出した。授業は一時専想寺で行われた。

大分郡鶴崎町

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