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被害【昭和28年6月梅雨前線(西日本水害)】大分市津留

|災害番号:005430|固有コード:00543058

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市町村
大分市

概要(被害)

津留方面はほとんどの家屋が浸水、城東中学校(現在の津留小学校の敷地を利用していた)は床上2寸まで泥水に浸かった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

災害概要

従来大分県の大水害としては、梅雨期にはその例がなく、台風の襲来によるものに限られていた。この年の梅雨前線の活動はいちじるしく活発で、特に25日から29日までの5日間の降水量は県の中部や西部では800ミリを越え、梅雨期間中の降水量としては、明治20年に大分気象台が始まって以来最大の大雨で、九州全域に甚大の被害があった。

Ⅰ 梅雨の経過
この年の梅雨は例年より約2週間も早い5月28日から始まり、梅雨前線が6月中旬の初めと7月中旬の初めに、一時南方海上まで南下して、梅雨の中休みがあったほかは、ほとんど九州付近に停滞して活発に活動した。
(1) 南西諸島方面にあった梅雨前線は、5月28日、華中から東進した低気圧の接近につれて北上し、6月3日まで県内各地に70〜120ミリの降雨があった。
(2) 6月4日と6日に低気圧が華中から東進して、一時九州の南海上まで南下していた梅雨前線が九州まで北上し、翌7日には、台風2号が県下を横断して北東に抜けた。このため、九州北西部に400ミリ前後の大雨が降って大きな水害をもたらし、県下にも150〜250ミリの大雨が降り、かなりの被害があった。(別項述)
(3) このあと、12日から14日まで中休みがあったほかは、前線はほとんど九州付近に停滞して、前線上を低気圧が次々に通り、17日から23日にかけては、やや強く活動し、熊本県中部に350ミリ、県下にも70〜150ミリの大雨が降つた。
(4) つづいて、25日から29日にかけて、前線は再び九州を南北に振動して、いちじるしく活発になり、前後3回にわたって豪雨を降らせ、九州中部では1,000ミリ、北部から北西部にかけては700〜800ミリに達し、甚大な水害を受けた。(後述)
(5) 7月に入ってから、前線は時々日本海南部まで北上し、梅雨明けの兆候を見せていたが、8日から11日にかけて前線が九州まで南下し、九州北部や中部、西部に多い所では200ミリをこえる大雨が降り、県下でも20〜100ミリの降雨があった。(別項述)
(6) 12日から15日までは中休みがあったが、16日から前線が再ぴ活動を始め、九州西部や南部で450ミリをこえる豪雨があり、県下にも100〜250ミリの大雨が降った。20日になって、前線は北上を始め、21日には日本海北部に達し、長かった梅雨はやっと明けた。(別項述)

Ⅱ 6月25日〜29日の前後3回にわたる大雨の状況
(第1回目)6月25日〜26日の大雨
6月24日の朝、揚子江中流に発生した低気圧が東北東に進んで、25日の朝黄海に進んだころ、梅雨前線は九州南方海上から次第に北上し、大分県では8時ごろから雨が降り始めた。15時ごろには、前線が九州中部に北上して、活発に活動を始め、雨も強くなった。この低気圧は閉塞しながら朝鮮海峡を東に進み、前線が大分県南部まで北上した夕刻ごろから雨は雷を交えて更に強まり、26日朝まで続き、筑後川や大分川流域では、150〜200ミリに達する大雨が降った。
すでに5月末以来300〜400ミリの雨で十分に湿っていたところへころへこの大雨で、河川は25日夜半ごろから急に増水を始め、筑後川上流や大分川下流で、早いところでは、堤防決壊、橋の流失や浸水などの被害が出はじめた(夜明ダム水害など)。この強い雷雨は6時から7時ごろ一時弱まったが、その後再び強まって、夕刻まで続き、降りはじめからの総降水量は、県の西部や中部では400〜500ミリ、北部で200〜300ミリ、南部で150〜300ミリに達した。このため、大分川流域では26日の昼過ぎに、多くの堤防が決壊し、久大線の向ノ原駅付近から大分川河口まで延々14キロメートルにわたり細長く、一大湖水と化し、浸水面積は約21平方キロメートルに及んだ。上流域でも山くずれやがけくずれがひん発し、交通は全く杜絶した。
一方、筑後川上流域では、玖珠郡野上町付近から日田をへて、福岡県境にいたるまで延長約40キロメートルにわたって激流に洗われた。日田市内でも昼ごろから川岸の家屋の流失、倒壊が多くなり、はんらんした川水は市内に侵入し水深0.5〜1.5メートルに達して、交通・通信網はすべて途絶した。その他、県内各地にも死傷者、家屋の倒壊、流失、浸水、田畑の埋没、橋の流失など、多くの被害があった。
このようにして、25日の朝以来約33時間にわたって激しい活動を続けた前線も、26日夕刻にはようやく衰えて、宮崎県まで南下した。

(第2回目)6月27日の大雨
27日に低気圧が東シナ海から東進するにつれて、梅雨前線も北上しはじめて、活動が再び活発になり、27日の昼すぎから雨が強くなって、日田では午後から大分では夕刻から雷を伴つて、次第にどしゃ降りとなった。その後前線が再び県南まで南下したので、夜半には小降りとなった。この雨は県南部の沿岸や、国東半島北部を除いて、100〜250ミリに達し、筑後川や大分川、大野川の水位は夕刻ごろから急上昇して、筑後川の上流では夜半前に、再び堤防の決壊や多数の浸水家屋がでた。

(第3回目)6月28日の午後から29日朝にかけての大雨
28日の朝、朝鮮の南東部にあった低気圧は、29日にかけて日本海南部に進み、一方対島海峡付近からゆっくり南下中であった寒冷前線は、15時ごろには、県内を東西に横ぎりながら南下した。このため、28日15時ごろから雨が強まり、夜半ごろには雷を交えてどしゃぶりとなり、29日の昼前には前線が南九州まで南下して雨が止んだ。県の南東部は50ミリその他は100〜150ミリの大雨で、河川は28日の夕刻から増水したが、大したことはなく、29日朝には減水した。こうして、この記録的な豪雨は終りをつげた。

Ⅲ まとめ
この年の梅雨期間は54日間(5月28日〜7月20日)で、平年より18日も長く、降水量は3倍以上に達した。この豪雨による被害は中部、北部九州に多く、特にひどかったのは、筑後川流域、小国、阿蘇、熊本方面で、県内では、日田、玖珠方面、大分川下流域、大野川上流、山国川中流域であった。大分県の調査によれば、被害総額は178億円に達した。この記録的な豪雨被害の教訓によって、雨量や水位の観測網などの防災態勢の整備が急がれるようになった。

【出典:大分県災異誌 第2編(1966)】

【昭和28年6月梅雨前線(西日本水害)】

【出典:1953/6/27 9:00の天気図】

災害データ

最低気圧
-
最低気圧観測地
-
最低気圧観測日時
-
最大風速の風向
-
最大風速
-
最大風速の観測地
-
最大風速の観測日時
-
累積最大降水量
842ミリ
累積最大降水量観測地
日最大降水量
318ミリ
日最大降水量観測地
今市
最大日降水量の観測年月日
1953/6/26
最大1時間降水量
-
最大1時間降水量の観測地
日田
最大1時間降水量の観測年月日時間
1953/6/27 19:57
死者・行方不明者数
84人
負傷者数
-
住家全壊/全焼数
1807戸(棟)
住家半壊/半焼数
1523戸(棟)
住家一部損壊数
-
床上浸水数
8165戸(棟)
床下浸水数
30417戸(棟)
道路被害 ※事前通行規制は除く
5236か所
橋梁被害
947か所
山・崖崩れ
11964か所
被害総額
17,814,221 千円

主な被害

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26日午前8時15分より降り出した豪雨に依り午前11時頃流木多量となり水位は橋面上1.6米に達して右岸側より流失し始め、瞬時にして全橋体橋脚及び右岸橋台の上端より2.3米の所で破壊流失せしめた。橋脚は2基共約15米下流に頂部を川下に向け、半分砂に埋れており、床版は所々主鉄筋を露出する程度で約100米下流に二つに折れて半分砂の中に突込んでいた。尚右岸橋台は河の中に約14米程度突出して築造されており、又両橋脚共基部は岩盤へ埋め込みしてなく途中の転石にのっている状態であった。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

26日午前8時水位は右岸側橋面上約0.3米、左岸側橋面上約0.1米を越え、流木は中央部橋脚に約100石堆積した。そのため左岸より第4と第5橋脚間の高欄及び橋体が川下に向かってへの字形をなして決潰、次いで右岸残存部、最後に左岸残存部と順次に橋体は全部流失した。その後約30分~1時間を経て渦流による洗掘と流木の激突により第5橋脚、次いで第7橋脚、最後に第3橋脚が流失した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

三隈川の氾濫で市の中心部につながる亀山橋、徳瀬橋、石井鉄橋(三隈橋)が流失、陸の孤島となった。80町歩の耕地のうち60町歩の田畑が石ころと砂に埋まり、住宅は片っ端から流され、倒壊したため、住民は日隈小学校や神社などで避難生活を送った。

【出典:日田水害誌(池田範六,1955)】

60代の男性が水に流され死亡した。

【出典:日田水害誌(池田範六,1955)】

牧口橋より1000米下流に位置し、架橋条件は同性質である。右岸が低水部であるが左岸側の高水部が水衝部となったために漸次洗掘され、又上流牧口橋橋材が激突して右岸側4経間を残し他は全部流失した。その後左岸堤防に流木が激突破堤し堤内を本流の如く流れたため洗掘された部分に再び土砂が堆積した。尚右岸側残存部は最右の脚が少し傾斜したのみで他は無事であった。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

玖珠川は河幅80米余りで普通30~40米の幅をもって蛇行し、洪水の時は流量によって水際曲線が変化し水衝部も従って異なってくる。それで過年のデーラ、ルース、キジア等比較的大きかった洪水にしても冠水程度の右岸側木造部高水敷も今回は水衝部と化し、上流の橋材及び立木等が流れかかり、河床の洗掘が進むにつれて右岸側の木造部は橋体・橋脚共5スパン流失、残り2スパンは第1、第2木造橋脚が下流に30度余傾斜、橋体はコンクリート脚にもたれるようにして残った。尚永久構造部分は無事であった。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

本橋架設地点は屈曲部で河幅の最も狭い所であるため水位が著しく上昇、橋面を溢流して橋体流失、同時に河床洗掘され橋脚転倒押流された。尚橋脚は20米下流に残存していた。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

架設地点より上流は屈曲多く河幅が一定しないため曲線多く又河床は大転石、硬岩のため堆積土礫の送流著しく、突出せる右岸橋台及び左岸側橋脚の河床を洗掘して転倒、橋体共流失した。尚左岸側橋脚は50米下流に残存していた。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

水位は計画高水位を越えて床版面に達し、流失橋材によりケーブルが切られ橋体は流失、塔柱一基は土石の衝突に依り転倒した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

26日午前9時半から10時半頃最高水位に達し、当橋上流部約100米附近より河状が右折湾曲しているため左岸国道(久留米別府線)は水位が路上1.8米に達し、本橋の高欄を越流、多量の流木を流下した。そのため左岸より第2連目の高欄約11米を損傷、又左岸側より第1橋脚は洗掘により28日突如として沈下し約30度傾斜したため第2連のスパン14.10米中、約10米に亘って亀裂を生じた。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

本橋は九電天ヶ瀬発電北山田取入口の上流100米の地点にあり、今回の洪水でその取入口が破壊され、その上流に堆積していた土砂が漸次洗掘されたため、本橋脚は2米余りの洗掘を受け、水勢の増大に伴い26日午前10時左岸側から橋脚4基が倒れた。午前11時の最高水位時にコンクリート橋脚及び橋体の大半流失、残ったのは右岸側の2経間のみであった。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

本橋は昭和25年災害で右岸側より第2,3,4脚根が洗掘されていた。当所は河状が右曲りの屈曲部で左岸側が水衝部であり、水位が橋面を越え流木が多量に流下して26日午前10時20分左岸より3経間流失、他は約40分後水位の最高時に流失、右岸より第2,3,4橋脚もその時倒れ去った。他の橋脚5基及び両橋台は無事であったが、左橋台後方13.0米、右橋台後方20米の道路及田畑は流失した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

本橋附近の河床は比較的平坦であり、災害時は高水位と水圧に抗しきれず左岸側5スパンが先ず流失、次いで右岸側4スパン、その後残りの中央部も流木のため流失、両兄弟を残し全スパンあとかたもなく流された。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

26日午前11時頃右岸よりトラス部の第3橋脚(コンクリート脚)と基礎との界より折損し両側2スパン流失、午後1時頃橋面上0.2米溢流して全橋流失した。通水断面の不足と、脚と基礎との連結部に弱点を有していたためと思われる。又右岸橋台は堤内地に溢水したため裏込が抜かれ崩潰した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

計画高水量オーバーにより全橋流失した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

26日午前8時頃橋面迄増水、最初右岸より第8橋脚に材木1本激突し8連目と9連目が橋脚と共に流失、その後は橋脚基礎が渦流により洗掘され、又軽構造のため水圧と浮力により右岸に向かって各スパン次々に流失し、2~3連ずつ結束のまま下流約100米に流れ分散していた。最後に右岸側流失の際橋台を決潰した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

26日午前9時30分~11時頃に最高水位に達した。午前9時頃より右岸国道を溢水し、当橋取付道路を含みて上下流に副った国道約400米を崩壊せしめ、続いて右岸側の木桁部を流失した。午前10時頃に左岸池の原部落民の水防にも拘らず、約1米高に積まれた水防資材を押流し部落内に浸水、当橋の鉄筋コンクリート桁部は左岸側より大音響を発して流失、その橋体は左岸堤防に副い約40米流下した。12時頃迄に多量の流木と橋脚基礎洗掘のため、左岸橋台と最左岸橋脚の折損せる一部を残して他は完全に流失した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

28日夜の豪雨と高潮が重なり、日豊線の宇佐駅付近は集落の中央を流れる向野川が2メートルあまり増水。周囲の河床が高いために氾濫を起こし、午後11時半ごろ宇佐駅前通りの30戸あまり、続いて集落西側の80戸が浸水した。浅いところでは2尺、深いところでは5尺あまり床上浸水した。宇佐地区警察や、消防団員がロープで老人や子どもをしばり宇佐駅へ避難させた。水は3時間のち29日午前1時半ごろから引き始めた。死傷者はなかった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊1面】

亀川小学校正門から約100メートル上手の観光道路(兼堤防)が30メートル決壊。亀川小学校および亀川駅前一帯の約30町歩が冠水、29日午前1時頃には住宅40戸あまりが浸水した。さらに増水のおそれがあるために市当局は強制立ち退き命令を出した。地元消防団は漁船2隻で住民の救助にあたり、午前3時過ぎには全員を付近の人家や旅館などに避難させた。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊2面】

乙原水源地横に約20メートルのひび割れが発生し、山崩れのおそれが出たために、付近の住民11世帯が避難を行った。亀裂は30日にかけさらにひどくなり、10戸の家が傾き危険な状態となった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊2面】

鮎川発電所へ水害調査に向かっていた大分地区署川西駐在所の巡査が行方不明になった。巡査は湯ノ上地区の民家に立ち寄ったあと連絡が取れなくなった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日夕刊2面】

校舎西側の山が崩れ、中校舎全壊、前校舎西半分が全壊、高校校舎が全壊するなどの被害を受ける。当時、小学校、中学校、高校の分校が同じ敷地に建っており、小学校は150坪が全壊、70坪が半壊、校庭120坪が流失し、被害額は670万円。中学校は100坪が全壊、校庭70坪が流失し、被害額は393万円。高校は180坪が全壊、被害額は432万円にのぼった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊1面,直入町誌(直入町誌刊行会編集委員会 編,1984)】

55坪が全壊、被害額は132万円にのぼった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊1面】

100坪が全壊、被害額は240万円にのぼった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊1面】

28日の雨で桂川が夜の満潮とかちあい午後11時頃から翌午前1時頃まで最高2メートルの増水を記録。御玉橋の下流左岸(65メートル)、上流(35メートル)、桂橋の下流左岸(8メートル)がそれぞれ決壊して、右岸の玉津側の御玉橋から町役場一帯は濁流が護岸を越して、2尺ほど浸水した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日夕刊1面】

豪雨のため60代の男性が氾濫した花月川の濁流に飲まれ死亡した。遺体は28日午前7時頃、下流の光岡小学校の裏手で発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

山崩れのため住宅が埋没。家族8人が生き埋めとなった。集落の人たちの救助作業で4人は助け出されたが、60代の女性、10代の女性、4歳の女の子、2歳の男の子が28日遺体となって発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

裏山の崩壊のため、住宅が前の松木川に半分押し出され、家の中で家財整理中だった40代の男性と30代の女性2人の夫婦が下敷きとなった。近所の人や消防団が終日捜索活動を行ったが、発見されず、川に流されたものだとみられている。29日午後5時頃に現場から500メートル下流で男性の切断された片足が見つかった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

劇場・寿館あと付近の家屋は4戸が流失した。そのうちの1軒は別府湾の対岸、国東町の国東海岸に漂着した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

三隈川の増水のため製材所が流失。30戸ほどが屋根を残して浸水した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日夕刊2面】

28日夜に県北を襲った豪雨により、中津駅の構内は100ミリ浸水。日豊線は不通になった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊1面】

この年の3月に完成したばかりの鉄筋づくりの橋に玖珠川と大山川から流れてくる木材や家屋などがひっかかり三隈川をせき止めたため、行き場を失った川の水が市街地に流れ込む原因となった(三隈大橋自体は流失しなかった)。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

死者6人、流失家屋32戸、浸水家屋340戸を出し、集落の3分の1が水浸しになり、玖珠郡のうちもっとも被害が大きかった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

玖珠川にかかる牧口橋が流失。橋のたもとの堤防も崩れはじめた。近くに住む一家7人は家の周囲が一面濁流となったため、稲干しいかだに乗り、約1キロ下の田んぼの小高い丘に避難。そこにかけつけた集落の人がロープをいかだに結びつけ引き上げようとしたが、残り3メートルというところでロープが外れ、本流に流されてしまった。途中で2人がいかだから転落、その後玖珠町の協心橋の橋脚にいかだは激突。全員バラバラになり流れに飲まれてしまった。1人は自力で逃げ出したが、1人は遺体で発見。残り5人は行方不明のままになっている。

【出典:大分合同新聞 1953年6月29日朝刊3面】

豪雨のため芹川が増水、流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

豪雨のため芹川が増水、流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

60代の男性と50代の女性の夫婦が住宅とともに大分川に流され行方不明となっていたが、27日正午ごろ下流の稙田村田原で2人とも遺体となって流れているのを発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

60代の女性と20代の女性の親子が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日夕刊2面】

芹川が増水、流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

豪雨のため芹川が増水、流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

日吉川からあふれた水で1戸が破壊された。住民は無事だった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

豪雨のため流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

豪雨のため流失した。また26日12時10分頃には付近の住宅4戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

豪雨のため流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

田畑はほとんど埋没し、大分~鶴崎間の国道は1尺の泥水に洗われた。そのほか床上浸水1戸、床下浸水10戸などの被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊3面】

26日午前11時頃流木相当量に達し水位は橋面を0.2米こえて橋脚基礎洗掘され橋体橋脚共全部流失した。現場附近に脚2基倒れ他は流失所在不明である。又河川断面小なるため堤内地に溢水、橋台は裏込が抜かれ崩壊した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

豪雨のため流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

豪雨のため流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

豪雨のため流失した。また26日10時50分頃には慈眼山付近の住宅が1戸流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面,日田水害誌(池田範六,1955)】

元治、五箇村、馬渡の水路が決壊。同時に佐平治、山添などの4つの堤も堤防が切れ、水が由布院県道に溢れ出した。家屋の倒壊、流失が相次ぎ、久大線は約300メートルにわたり線路がアメのように曲がってしまった。その地殻に住む8歳と10歳の子どもが住宅とともに流失し、遺体となって発見された。そのほか重軽傷5人、家屋の全壊11、流失4戸などの被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊2面】

50代の女性が白山川に転落し行方不明になったが、8時頃に遺体となって発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊2面】

15戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

9戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

8戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

裏山ががけ崩れを起こし、住宅が埋没。近所の人がかけつけ救出活動を行ったが、60代の男性と50代の女性の夫婦が遺体となり発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊2面】

がけ崩れで家屋が倒壊。就寝中の一家7人が生き埋めとなり、消防団員が救出活動を行ったところ6人は助け出されたが、60代の女性が遺体で発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊2面】

4歳の男の子が自宅前を流れる大志生木川のふちを歩いていたところ、誤って転落。水死した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊2面】

土砂崩れのため60代の男性が、右足に全治1週間のけがを負った。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊2面】

豪雨のため橋が通行禁止になっていたところ、通りがかった親子が見張りの人の制止をきかず橋を渡り、その途中で流失。父親は助かったが5歳の女の子が水死した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

豪雨のため57戸が流失した。「日田水害誌」によれば73戸流失、5戸全壊。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

26日9時55分には川原町の道路が全部浸水した。11時30分には通行不能になった。13時20分の三隈川の水が川原町一帯から市街地に入り、本町から大和町にかけて50~180センチを浸水し、一部は庄手川に流れ一部は東町付近にたまった。町は20戸が流失した。

【出典:日田水害誌(池田範六,1955),大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

豪雨のため16戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

旅館成天閣が半壊、酒店、パチンコ店など10戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

がけ崩れのため、住宅が倒壊。4人が生き埋めになり、1人が救助されたが3人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

3人が行方不明になったと大野地区署に届け出があった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

土砂崩れのため住宅が埋没。2人が生き埋めとなり救出作業が続けられた。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

裏山が崩れ、住宅で遊んでいた1歳と11歳の子どもが下敷きとなり死亡した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

豪雨のために大山川沿いにあった住宅2棟が押し流され、住民2人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日夕刊2面】


大山川、玖珠川の合流点附近にあり両川の出水一時に集り流木も多く流心部橋脚が洗掘されて26日午前1時30分頃右岸より第6橋脚が下流へ1米程流下、水位が桁下に達するに及び右岸より6~8経間の木桁が流失、更に両側へ2~3経間流失し午前8時頃大半流失した。

【出典:昭和28年西日本水害調査報告書(土木学会西部支部, 1957)】

8戸が床上浸水した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日夕刊2面】

「栄町、出小屋」付近の約20戸が床上浸水した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日夕刊2面】

がけ崩れのため、非住家1戸が全壊。住家が半壊した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日夕刊2面】

自宅にとどまった5世帯10数名は自宅の屋根にのぼり消防署員らによりつぎつぎと救出されたが、60代の男性と10代の女性の親子が川に流され、娘は救助されたものの父親は行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

大分市下郡

濁流によって道床が流されるなどの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

下毛郡本耶馬渓村  青の洞門

豪雨のため町田川にかかる橋(木橋・15メートル)が流失した。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日朝刊3面】

豪雨のため通称「ウベンボウ山」が前後12回にわたり山崩れを起こし、住宅5戸、非住家11戸が埋没した。14人が生き埋めになり、26日朝には女性1人が遺体で発見された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日夕刊2面】

連日の豪雨で橋脚が浮き上がるなど崩壊の危険にさらされていたが、さらに雨が激しくなった26日午後1時6分に大分市内側の橋脚が3本、約15メートルが押し流された。今津留地区が孤立したため、水害後に仮橋をかけて急場をしのいだ。橋が再建したのは翌年の10月だった。また、橋と一緒に敷設されていた水道管が破壊されたため、津留地区の住民約300世帯は飲み水の供給が絶たれた。

【出典:大分合同新聞 1953年6月26日夕刊1面】

大分市舞鶴町・長浜町/今津留・南津留  舞鶴橋

昭和28年6月の水害で小平集落が大きな被害を受けたことを伝えるため、小平壮年団によって建てられた「洪水碑」。碑の裏側には当時の浸水した高さが刻まれている。もともと小平集落の公民館の前に建てられていたが、移転したため現在の場所に移された。

日田市大山町西大山小平

滝尾橋付近の大分川の堤防が26日午後0時半ごろ決壊したため、付近の6世帯24人が屋根に避難。午後5時ごろから大分海上保安部、消防署員、地元住民らの協力でロープが張られ、伝馬船により午後9時半までに全員救助された。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日朝刊3面】

大分市北下郡

豪雨のため大分川が増水、午後6時に全員待避命令が出され、住民は南大分小学校を目指した。集落には逃げ遅れた女性や子ども約70人が残されたまま、午後8時に田中集落に通じる道路が約10メートルにわたって決壊し身動きが取れなくなってしまった。逃げ遅れた人々は集落のもっとも高い民家へ避難し一夜をあかした。また明磧橋の上流ではロープを使って救出される住民もいた。

【出典:大分合同新聞 1953年6月28日朝刊1面】

大分市明磧

大雨による激しい濁流のため両岸から越水、溢流し決壊した。

25日の夜半頃から急に河川が増水し、堤防の決壊や橋の流失、浸水などの被害が出た。上流域では玖珠郡野上町付近から日田をへて、福岡県境にいたるまで延長約40キロにわたり激流に洗われた。また27日の大雨でも夜半前に再び堤防の決壊や多数の家屋の浸水がでた。

大分川の洪水により田んぼが水にあらわれ、稲を根こそぎ持っていかれた。

大分市国分

山崩れが発生し、崖下の住宅に住む60代の女性が死亡した。

日田市吹上町

負傷者6人、建物全壊5戸などの被害が出た。写真は中大山集落の住宅被害。

日田郡大山村

行方不明者1人、建物全壊5戸などの被害が出た。

負傷者2人、建物全壊1戸、半壊18戸などの被害が出た。

大雨のため25日の夜半頃から急に河川が増水し、堤防の決壊や橋の流失、浸水などの被害が出た。流域では26日の昼過ぎに多くの堤防が決壊し、久大線の向之原駅から大分川河口まで延々14キロにわたり細長く、湖のように浸水し、その面積は約21平方キロメートルに及んだ。また上流域では山崩れや崖崩れが頻繁に起こり、交通は全く機能しなくなった。

家屋23戸、事務所3戸、倉庫3戸、工場3戸が流失した。このほか負傷者3人、建物全壊8戸などの被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

床上浸水4戸、床下浸水36戸などの被害が出た。

住宅2戸が流失、そのほか負傷者1人、建物全壊1戸などの被害が出た

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

住宅18戸が流失、そのほか負傷者10人、建物全壊1戸などの被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1953年6月27日夕刊1面】

行方不明者1人、建物全壊5戸などの被害が出た。

行方不明者1人、軽傷19人、家屋の流失26戸、全壊15戸などの被害があり、罹災者は42907人にのぼった。

大分市

26日の昼頃から川岸の住宅の流失、倒壊が多くなり、はんらんした川の水は市内に入り込み、深さ0.5〜1.5メートルに達した。浸水家屋は全市の3分の2ほどにもなった。交通・通信はすべて途絶えた。死者5人、負傷者160人、建物全壊148戸などの被害が出た。

日田市

死者10人、負傷者7人、建物全壊19戸などの被害が出た。

住宅1戸が流失、そのほか建物全壊1戸、半壊2戸などの被害が出た。

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