大分県災害データアーカイブ|大分大学減災・復興デザイン教育研究センター(CERD) NHK大分放送局 × 大分大学減災
復興デザイン教育研究センター(CERD)

被害【昭和26年10月台風第15号(ルース台風)】南海部郡下堅田村

|災害番号:005200|固有コード:00520040

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市町村
佐伯市

概要(被害)

住宅全壊9、半壊6などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

災害概要

ルース台風経過概要
10月8日頃マリアナ群島の西方海上に熱帯性低気圧が現れたが、9日午前9時飛行機観測によって、詳細状況が確認され、台風ルースと命名された。台風ルースはその後急速に発達しつつ西北西に進み、12日にはバリンタン海峡の東方海上で北西に転向し、石垣島の南東方で更に北北東に転向して、14日朝沖縄本島の西南西方に達した。このあたりから進路を北北東から北東にとって、速度も早くなり、同日夕刻ついに九州南端鹿児島西部に上陸するに至った。その後次第に進行速度を増しながら九州各地に猛威をふるい、同日9時30分頃には、熊本、大分の県境にせまり、台風の中心は玖珠郡森町と大分郡湯布院町の中間付近を通って由布山付近をかすめ、同日午後10時30分頃宇佐郡長州町付近から周防難に抜け、午後11時45分には山口県防府市の西方を通過して、15日午前3時頃島根県米子市の南西方に達し、その後次第に衰えて、960ミリバール位となり、午前4時には日本海に出、午前9時頃には能登半島付近を通り、その後進路を北東にとって、北陸より再度本州に上陸、更に東北地方へむけ本州を横断して太平洋へ去った。

大分付近における暴風雨の状況
大分付近では、13日午前5時頃から前線による雨が降り始めたが、14日午前10時台風が奄美大島名瀬の西方に接近した頃からは強雨に変わり、同日午後6時台風が九州上陸前後からは、風速も10メートルを越えて、いよいよ本格的暴風雨となり、その後、台風が大分県に接近するに従い、風雨とともに益々強くなり、同日午後9時37分には、大分の気圧は957.1ミリバールとなって最低を示し、それと相前後して、瞬間最大風速39.0メートル東南東が、午後9時30分に現れ、平均最大風速は21.4メートル南東が、午後9時40分に現れた。雨は台風が大分県にはいる直前に最も速く、1時間最大雨量は、午後8時20分より同9時20分までの1時間に22.5ミリメートルが現れた。台風が大分県通過後は雨は次第に弱雨に変わり、午後10時51分には全く止み、風も漸次弱まって、15時午前9時以降は10メートル以下となった。

大分測候所に於て観測された台風眼について
大分測候所では、14日午後10時40分頃同所の西方より南西方に亘り高度約10度位の所に、下層雲の弧状の切れ目を目撃、この弧状の切れ目の中に中層雲や星を認め、台風眼の端らしいものを観測した。台風眼附近の周辺には、雲堤状の雄大積雲を伴い、やや拡がりつつ次第に西から北西へ移動し、午後11時30分頃には、上空や東方にも片乱雲の隙間が現れ弧状の切れ目は判然しなくなった。15日午前0時過ぎに至り、極く薄い高層雲を通して上空に月が見られるようになつたが、同1時過には再度下層雲が増し、月も見えなくなった。

台風コースと大分県内の被害について
大分県中央を南々西から北北東に縦断した今回のルース台風に伴う県下の被害状況を見ると、台風の経路を中心として、東側に当る県東部およびその沿岸が特に被害甚大で、台風経路の西側および中心(台風眼)が通過したと思われる附近では、東側に比して被害は予想外に僅少であったように思われ、台風通過に当たり、暴風雨圏内の中、危険半円と言われる東半円側の暴風雨が如何に強烈であったかがうかがわれる。(大分測候所調査)

【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】

【昭和26年10月台風第15号(ルース台風)】

【出典:1951/10/14 21:00の天気図】

災害データ

最低気圧
957.1hPa
最低気圧観測地
大分
最低気圧観測日時
1951/10/14 21:37
最大風速の風向
南東
最大風速
21.4メートル
最大風速の観測地
大分
最大風速の観測日時
1951/10/14 21:40
累積最大降水量
600.7ミリ
累積最大降水量観測地
重岡
日最大降水量
398.1ミリ
日最大降水量観測地
重岡
最大日降水量の観測年月日
1951/10/14
最大1時間降水量
-
最大1時間降水量の観測地
大分
最大1時間降水量の観測年月日時間
-
死者・行方不明者数
32人
負傷者数
654人
住家全壊/全焼数
1728戸(棟)
住家半壊/半焼数
5677戸(棟)
住家一部損壊数
-
床上浸水数
10805戸(棟)
床下浸水数
23908戸(棟)
道路被害 ※事前通行規制は除く
2044か所
橋梁被害
263か所
山・崖崩れ
-
被害総額
14,831,470 千円

主な被害

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牛淵橋のそばに建立された石碑。
1951(昭和26)年のルース台風の際に橋が流失し、橋の上流側にある沖地区と北山地区の交通が寸断された。
その後、新たな橋が架けられたことを記念し、通行人に伝えるためにこの位置に石碑が建立された。
現在の牛淵橋は1953(昭和28)年2月に架設されたものであり、ルース台風後に架けられた橋がそのまま使われている。

【碑文】
牛淵橋由来
此橋ノ下流約四丁許ノ䖏ニ梁瀬ノ渡リガアル古来土橋ヲ架ケ以
テ沖北山両部落交通唯一ノ便ニ供シタノデアルガ毎年出水期ト
モナレバ一掃ノ災禍ヲ受ケ人馬共ニ徒渉ノ難渋ヲ喫スルコト幾
十百年郷人之ヲ憂ヒ今ヲ去ル四十年前此ノ地ニ木橋ヲ架シタル
モ数年ニシテ流失依テ両區民凝議郷土振興ノ為結束奮起多額ノ
私財ヲ醵出位置ヲ再ビ此䖏ニ擇ビ石橋ヲ架設永遠ノ計ヲ為シ稍
々安堵セルモ去昭和二十六年ノルース台風ノ際一瞬ニシテ流亡
ノ災厄ニ逢着兩區教育産業交通ノ生命線ハ無残ニモ断絶サレ前
途ノ光明ハ完全ニ消滅シテ仕舞タノテアル 時ノ両川村長権藤
保馬氏ト両川村議會長安部邦夫氏ノ聡明ト侠氣トハ快ク地元民
ノ要請ヲ容レ直ニ復興ノ計畫ヲ立テ村議會ノ協賛ノ下ニ七百数
十万圓ノ巨費ヲ投ジ着工数ヶ月ニシテ縣北屈指ノ雄大堅牢ヲ誇
ル斯橋ガ竣成ヲ遂ゲタノデアル 因ニ該工事ノ施行ニ當ツテハ
驛川町徳光建設ノ犠牲的奉仕ト村議髙窪隆義安倍政美両氏ノ挺
身的協力トハ其効績實ニ著大ナモノガアル 僅々五十戸ニ過ギ
ザル沖北山両部落千年ノ大計トシテ如斯壯観無比ノ名橋ガ架設
サレタ事ハ時代文化ノ餘澤トハ言ヘ實ニ一世ノ奇蹟トシテ交通
者モ共ニ歓バナケレバナラナイ因テ本會ハ提唱者古権淳生君ノ
意見ニ從ヒ有志ト謀リ文ヲ勒シ其由来ヲ後昆ニ傳ウ次第デアル
  昭和三十一年九月仲秋     院内村 教育委員會

※碑文の画像(2枚目)・翻刻は「デジタル拓本」による。

【出典:碑文・牛淵橋銘板】

宇佐市院内町新洞 牛淵橋由来碑

校舎2階建て1棟が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月22日朝刊1面】

御神木が台風により根こそぎ吹き倒され、拝殿を押しつぶし、神殿を傾斜させた。

【出典:大分合同新聞 1951年10月25日夕刊2面】

国東半島から中津に至るまでの海岸堤防はズタズタになり満潮時には海水が稲の穂先まで浸している。海岸約2キロの間に5か所、計750メートル、中堤防18か所、約450メートルが決壊した。この場所は海岸堤防からは海水、中堤防からは駅館川の水が流入し農家の人を悩ませた。16日には農家でない人も参加し、奉仕団約1000人が潮止め工事を行った。

【出典:大分合同新聞 1951年10月20日朝刊1面】

10メートルが決壊、復旧工事は昼夜兼行で行われ、20日には通行できるようになる。

【出典:大分合同新聞 1951年10月20日朝刊2面】

昭和4年に建てた2階建ての本校舎(250坪)が半壊、柱は曲がり、壁は落ち、ガラスは壊れ、わずかに職員室を残し他は全部使用不能に陥り、420名の生徒は教室を失ってしまった。緊急臨時村議会の結果、割合損害の少ない2階建ての講堂兼教室に1年2学級と6年2学級を収容、他の8学級300名を桑原、目明、尾本、藤田の各公民館分館に収容、17日より授業を開始したが生徒が多数のため机を入れることもできず、板の間に座り腰掛けを机がわりに授業を続けている。

【出典:大分合同新聞 1951年10月20日夕刊2面】

ルース台風では県下最大の住宅被害を受けた。14日夜も大野川、乙津川、片野川の堤を越えた濁流がたちまち村中にあふれ被害のひどかった松岡、菰田集落ではわずか9戸のうち住宅2戸、非住家5戸、死者1人を出した。そのほか建物の全半壊は310棟を数えた。

【出典:大分合同新聞 1951年10月22日朝刊1面】

高田村の40代の女性が訪問先の家が倒壊したために、その下敷きとなって死亡した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月18日朝刊2面】

50代の男性が家屋倒壊の下敷きとなり圧死した。また15日午前3時頃には倒壊した住宅(40坪)から出火し全焼した。村消防署の調べによると損害17万円。

【出典:大分合同新聞 1951年10月18日朝刊2面】

40代の女性が倒壊した家屋の下敷きとなって死亡した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月18日朝刊2面】

台風のため行方不明になっていた50代の男性が17日12時ごろ、家屋の下敷きになって死亡しているのを長男が発見。東国東地区署に届け出た。

【出典:大分合同新聞 1951年10月19日朝刊2面】

校舎300坪が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

10日ほど前に改築した火葬場が台風で倒壊、1丈の崖から転落した。市土木課ではただちに新築に着手するが、工費は100万円あまりを要する見込み。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

架替中だった御玉橋の仮橋が流失した。損害約80万円。

【出典:大分合同新聞 1951年10月18日朝刊2面】

橋が流失したため、蒲江・米水津方面との交通が途絶。20日に復旧予定。

【出典:大分合同新聞 1951年10月18日夕刊1面】

11歳の女の子が梁の下敷きになって即死、50代の父親、70代の祖母、10代の兄と遊びに来ていた友人(10代)も重傷を負った。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

港に避難していた5機の機帆船のうち万栄丸など4機が沈没、みじんに飛び散ったり、陸上に乗り上げ底がなくなったりしている。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

製材工場1棟と造船台6棟が倒壊、ケヤキ材など200本が流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

住宅が倒壊し、30代の母親と1歳の男の子が下敷きになって死亡した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

住宅が倒壊し40代の男性が下敷きとなり即死した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

家屋全壊15、半壊14、流失6、床上浸水283、床下浸水64、堤防決壊21(755メートル)、船舶流失1、稲田浸水181町歩、畑浸水20町歩、農産物被害100万円の見込み(杵築地区署調査)

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

大破した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

大破した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

倒壊家屋32戸、中小破は2300戸に達した。関臼道路は十数か所が決壊して総額1億数千万円にのぼる被害を被っている。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

駅館川の堤防が200メートルにわたり決壊、集落の一部は床上浸水の被害を受けた。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

駅館川の堤防が決壊したため、川部、畑田集落の全部と、上田、法鏡寺集落の一部276戸が床上浸水の被害を受けた。また流失した住宅、非住家8戸、倒壊14戸にのぼり明治26年以来の大出水となり罹災者は1600名を数えた。村では14日夜から炊き出しを行った。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

木橋が流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

橋が流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

別府法記念公園の堤防決壊口から押し寄せた濁流によって倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊1面】

県道が80メートル決壊。日田~森町間のバスは日田~山の釣間、森町~北山田村平川橋を折り返し運転をしている。復旧には1週間を要する見込み。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

駅館川の堤防が30メートルにわたり決壊、集落の一部は床上浸水の被害を受けた。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

駅館川の堤防が100メートルにわたり決壊、集落全体が床上浸水の被害を受けた。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

駅館川の堤防が決壊し集落全体が床上浸水の被害を受けた。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

大分川右岸小野鶴橋上流200メートルの地点の堤防が決壊し、30戸が浸水、田畑30町歩が冠水した。特に決壊口近くの2町歩の水田は3尺平均の土砂をかぶって完全に埋没した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

37戸が浸水した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

3階まで高潮をかぶり1階はつつぬけのような状態になった。復旧にはここだけでも1000万円以上かかると見られている。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊1面】

昨年のキジア台風で被害を受けた護岸の修築工事を11月から取り掛かる前だったために、弱い部分が大波に突き崩され、200~300貫もの大岩がゴロゴロ投げ出された。そのため20数軒の海岸旅館がほとんど水浸しになった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊1面】

亀川桟橋が流出、港内の破損1か所などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅半壊9戸、非住家半壊5戸、床上浸水700戸、床下浸水1000戸、道路決壊1か所、堤防決壊60メートルなどの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

家屋崩壊22戸、半壊61戸、流失家屋5戸、破損365戸、床下浸水1602戸、非住家139戸、田畑流失埋没10反、冠水197町6反、堤防決壊8、電柱倒壊73、船沈没5隻、船流失2隻などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

大分川の氾濫で明治26年以来と言われる大洪水が発生した。堤防決壊5か所350メートル、道路決壊13か所300メートル、稲倒伏200町歩、埋没1町歩、床下浸水62戸、床上浸水41戸などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

橋梁流失5、県道決壊1、がけ崩れ3か所などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅全壊1戸、半壊14戸、非住家全壊6戸、浸水30戸、田畑冠水63町歩(うち稲3町歩収穫皆無)などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

家屋半壊10戸、非住家半壊8戸、床上浸水1300戸、床下浸水2000戸、堤防決壊1000メートルなどの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

付近では家屋全壊7戸(うち非住家5戸)、半壊19戸(非住家2戸)、床上浸水500戸、床下浸水1500戸、朝見沿線の225メートルの道路が決壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

産業奨励館、工芸指導所、県公共竹工補導所付近の海岸線の突堤が2か所、100メートルにわたり決壊したため、奨励館の一部が倒壊し陳列棚が全部流失した。被害総額は350万円にのぼり復旧までに約2ヶ月間を要する見込み。安全な場所への移転してはとの話が進んでいる。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊1面/夕刊2面/10月25日夕刊2面】

付近では家屋全壊15戸(非住家6戸)、床下浸水70戸、堤防決壊2か所・25メートルなどの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

停留所が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

ダンスホールが全壊した。中にいたダンサーや経営者家族は休暇で訪れていた占領軍の兵士によって倒壊前に救出された。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅1戸が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅1戸が埋没した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

小学校の前の橋が半分流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

新築中の校舎(延坪数120坪)が倒壊した。校舎は3月に着工し11月に竣工予定だった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅全壊10戸、半壊1戸、非住家全壊8戸などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

約60メートルが決壊し、通行不能になった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

50代の男性が家屋が倒壊した際に家の梁が原因で重傷を負った。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

1人が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

全村が浸水した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

橋が流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

家屋全壊20戸、床上浸水6戸の被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅全壊25戸、半壊14戸、非住家全壊15戸、子ども3人が負傷するなどの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

牛馬市場が流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

23戸が浸水し、家屋1戸が流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅倒壊7戸、半壊6戸、非住家倒壊50余戸、男性1人が圧死した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

住宅全壊9戸、半壊16戸、非住家全壊13戸、半壊14戸、負傷3人などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

流失家屋5戸、大破15戸、船舶の流失20隻、堤防決壊2か所、橋の大破1か所、床上浸水150戸、床上浸水50戸、稲の冠水150町歩などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

流失家屋6戸、海岸線堤防決壊3キロ、稲田冠水200町歩などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

負傷者1人、流失家屋8戸、倒壊家屋10戸、半壊135戸、床下浸水205戸、床上浸水90戸、稲田流失2反歩、埋没5町歩、冠水165町歩、畑流失100町歩、埋没5反歩、冠水13町歩、堤防決壊9か所、漁船流失1隻、損壊10隻などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

約500戸が浸水し、20戸が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊2面】

橋が流失し、復旧の見込みが立たなくなった。宇佐郡鉄道存置期成同盟会は大分交通に対し存置運動を続けていたが、結果的に廃止を余儀なくされる。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月18日朝刊2面】

農業を営む40代の男性と70代の母親が住む家(草ぶき・15坪)が倒壊。2人とも下敷きとなり右腕や肩などに全治3週間のけがを負った。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

床上浸水30戸、床下浸水25戸、家屋倒壊2戸、橋の流失2、田畑流失5町歩、冠水70町歩、道路決壊11、堤防決壊5(300メートル)、被害総額は1035万円にのぼった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

橋の流失2、河川決壊9、床上浸水7戸、床下浸水39戸、道路決壊8、田畑冠水120町歩、被害総額は1327万円にのぼった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

堤防決壊5か所(350メートル)、道路決壊13か所(300メートル)、稲の倒伏200町歩、埋没1町歩、床下浸水62戸、床上浸水41戸などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

村役場付近で床上浸水40戸の被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

村役場付近一帯で数十戸の浸水被害が出た。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

新築中の小学校の校舎が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

住宅が倒壊し、この家に住む妻が死亡した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

床上浸水300、全壊30、半壊49、家屋破損206、道路決壊7、田浸水95町歩などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

住宅全壊2、半壊77、床下浸水5、牛1頭圧死、田浸水50町歩などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

海岸の堤防13か所が決壊したため、大江、小祝地区の350町歩が冠水し、うち300町歩が潮をあびて5割の減収が予想されている。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

住宅1戸が倒壊し、70代の夫婦2人が圧死した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月18日朝刊2面】

校舎の大半にあたる12教室(378坪)が倒壊。損害額は1000万円にのぼった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

小学校が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

小学校が120坪が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月17日朝刊2面】

8割完成していた映画館(50坪)が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

貨物倉庫(30坪)が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

50代の女性が圧死した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

小学校の5教室が倒壊し、5人の負傷者が出た。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

本館が傾き、平屋1棟(6教室)が倒壊。このうち183坪が全壊、459坪が半壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月17日朝刊2面/佐伯市立八幡小学校HP】

高さ2丈5尺、4尺四方の石灰岩でできた13重の古塔が倒壊した。塔は国宝指定申請中だった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月18日朝刊2面】

9歳の男の子が倒壊した家屋の下敷きとなり死亡した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

幼稚園(50坪)が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

海岸のイリコ製造小屋は海水と土砂のため大きな被害を受け、高潮は芦崎から七本木の一部にまで及んだ。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

水野組所有の第3千代丸(9トン)は避難中、50代の船長が風により海上に投げ出され行方不明になった。15日午後5時ごろ網代付近で船を発見、翌日に引き上げ作業を行っているが船長は依然行方不明のまま。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月17日朝刊2面】

新築中の6教室(110坪)が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月17日朝刊2面】

便所および駅舎が半倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

渡り廊下が全壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面】

青江港の沖合10メートルに停泊していた70トンの機帆船が波によって転覆、沈没したが、積荷も乗務員もいなかった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月14日夕刊2面】

選手控室、番組編成所が全壊、事務局半壊、走路など約750万円の被害があった。11月競輪に間に合うように復旧工事を急ぐ。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月23日朝刊2面】

港の岸壁は大被害を受け、突堤の森永ミルクキャラメルのネオン塔は大半が倒壊。また大型船の接岸は当分の間できなくなった。四国・広島行きの小型船を除いて関西汽船の別府航路は19日まですべて大分港から発着することになった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日朝刊2面/10月17日朝刊2面17日朝刊2面/10月19日朝刊2面】

20代の男性が出水による避難中に行方不明になった。

学校裏の崖が崩れて宿直室、便所、教室の廊下が倒壊。2教室が半壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面/10月16日夕刊2面】

住宅と整骨院が倒壊し、子ども3人が負傷した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

開催中だった県農業祭の農機具実演場、諸種の展示会場、仮設の演芸場は風によってめちゃめちゃに倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

20代の男性2人が深江沖でのぼら釣りから帰るところ風雨となり、付近を航行中の漁船に曳航されていたが、日出港東方海上でロープが切れ行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

床上浸水の被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

床上浸水の被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

住宅の倒壊3棟、非住家の倒壊5棟、半壊2棟の被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

住宅の倒壊1棟、非住家の倒壊3棟などの被害があった。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

構内が浸水した。(現東中津駅)

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

構内が浸水した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

構内が浸水した。(現豊後清川駅)

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

橋の鉄桁が1基流失。レールは曲がり、付近の道床は流失・崩壊という大分鉄道管理局最大の被害をみせた。日豊線の柳ヶ浦~豊前善光寺間は17日午前11時14分大分発準急上り508列車から運転を再開した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面/10月17日朝刊2面/10月18日夕刊1面】

午後9時頃から大野川の水が増水、9時半ごろには橋上すれすれのところまで水が来ていたが、10時過ぎに「バリバリ」と音を立てて西側30メートルくらいのところから約12~13メートルが流失した。橋を通行中の3人のうち、2人は通過直後、1人は流失箇所数メートル手前にいたのでけがはなかった。工事中は渡し船での連絡になった。19日より工事が着工され、10月末に完成する予定。

【出典:大分合同新聞 1951年10月16日夕刊1面/10月18日夕刊1面/10月23日朝刊2面】

明磧橋上流の左岸が幅約30メートルにわたって決壊、あふれた水が大分川沿いの田畑数百町歩に流れ込み、豊饒、畑中、豊饒などの集落が一部浸水、明磧橋に近い明磧集落は濁流の中、一時完全に孤立した。15日午前0時頃から水はひきはじめ2時頃には危険な状況は脱した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

仮橋が流出した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

橋が88メートル流失した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

構内が浸水した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

中学校の校舎(1棟6教室)が倒壊。このうち217坪が全壊、152坪が半壊した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月17日朝刊2面】

佐伯市戸穴  八幡中学校(現 彦陽中学校)

高潮のため別大国道が長さ10メートル、幅約3メートルにわたり流出した。

【出典:大分合同新聞 1951年10月15日朝刊2面】

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