被害【昭和25年9月台風第29号(キジア台風)】佐伯市
|災害番号:005130|固有コード:00513002
- 市町村
- 佐伯市
概要(被害)
高潮のため、堤防の決壊0.1キロメートル、道路の決壊1.8キロメートル、田畑の浸水82町歩、住宅の浸水が294戸あった。
災害概要
キジア台風九州縦断の経過
キジア台風は13日午前8時、種子島の南南東100キロの海上にせまり、中心示度は960ミリバールを示し、中心付近の最大風速は40メートルと推定された。
この台風は、11日、12日頃最も強烈に発達したが、その後多少衰えて、種子島の東方海上を毎時8から10キロ位の極ゆっくりした速度で北上し、午前11時には九州の南端、大隅半島に上陸一歩前の状態となった。大分県、宮崎方面では、台風に流入する北東の気流によって、12日朝より、驟雨が継続し、殊に大分県では、12日夜半頃から豪雨となり風速も10メートルを越えてはやくも本格的暴風雨の様相を呈した。13日正午大隅半島の東端に上陸した台風は、同日午後2時30分頃、宮崎県都城市の西方を通過、午後5時頃には熊本と宮崎の県界、人吉市の東方を通り、午後7時30分に頃、阿蘇山の西側を通過して、午後10時頃大分県日田市の西方を通過し、午後11時30分には福岡県飯塚市の上空を経て夜半過ぎ玄界灘を抜けた。(大分測候所調査)
大分地方の気象状況
12日の午前3時頃、曇り出すと共に驟雨が始まり5時頃強雨となり風は弱かった。正午頃より午後1時まで豪雨となった。その後並雨や強雨が交互に降り続き同日夜まで及んだ。夜半前後より北北東の風が13メートルに達し雨は豪雨となり、翌日午前5時頃まで続いた。その後風は東に廻り、強雨は一日中降り続いた。15メートル以上の暴風となったのは同日午後3時頃からであって風は南東に変わった。午後7時から午後10時頃までが南東風15から18メートルに達し一番強かったが、その間に瞬間最大風速31.5メートルが午後9時42分に現れ相次いで平均最大風速19.2メートルが午後9時50分に現れた。同日夜半過ぎから南の風に変わると共に風も弱まり、雨も並雨となって次第に穏やかとなり14日午前8時には雨は止み9時頃から晴れ間も見えて平穏となった。(大分測候所調査)
大分県下の被害
キジア台風によつて大分県下は全県にわたり近年にない大被害を蒙つたが殊に海岸地帯では、満潮時刻と台風襲来時刻が一致したため全沿岸にわたつて高潮が起りさらに災害を倍加する結果となつた。(大分測候所調査)
大分県における被害総額は、53億9056万余円に上り昨年6月のデラ台風を遥かに上廻るものであった。被害のうち土木工作物が19億9661万円、農作物が16億6738万円、耕地11億5000万円、山林1億8301万円余円などが被害の主たるものであった。結果的に見てこの度は気象通報によって県民には事前に充分周知されたため警戒を最重にしていたので襲来時には人力の限りをつくして防衛に努めた結果人畜の犠牲は極めて僅少で被害を最小限度に食い止める事が出来たといえよう。(大分県)
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
1 キジア台風による大分県沿岸の高潮概況
昭和25年9月13日のキジア台風襲来にともなって、大分県沿岸各地に起った海面の異常隆起による高潮の被害は、南は南海部郡の沿岸から、北は宇佐郡、下毛郡の沿岸にいたるまで、その範囲は県下全沿岸にわたり、最近における高潮では、その被害状況からみて昭和17年8月27日以来の高潮であった。
被害の最もはなはだしかったのは、速見郡杵築町を筆頭に南または東に面した沿岸地帯で、特に南東に開いた港湾では、南東の暴風をうけ、風波の激突によって防波堤その他沿岸堤防、道路の決潰など多数を出したため、高潮に和した怒涛の衝撃を一層容易にし、被害を倍加する結果となった。浸水面積の最も大きかったのは、中津市を含む下毛郡および宇佐郡の沿岸一帯で、これらの地方では農耕地が海水に洗われたため、主として農作物の被害がおびただしかった。
つぎに最高潮位の発現時刻についてみると、県南部の蒲江港辺が最も早く19時30分ごろ、米水津、東中蒲では19時40分から20時00分の間で、佐伯港、津久見港附近で20時00分から20時30分の間、これより沿岸を南から北に向うにしたがい漸次遅れ、臼杵港から佐賀関半島南岸にいたるまでの沿岸では、21時00分から21時20分の間、別府湾内の各港では21時20分から22時00分の間、国東半島一帯の沿岸および姫島では22時00分から22時20分の間、県北部の宇佐郡、下毛郡沿岸の一帯は、別府湾における発現時刻と同様に21時までの間に現れている。大体において、県下各地の大部分の沿岸では、満潮時刻と台風接近時刻が一致したため、高潮は気圧最低時刻で、しかも各満潮時刻という最も悪条件の揃った南東ないし東の暴風雨中に起った。わずかに県北部の宇佐、下毛両郡の沿岸のみは台風直前の北東の暴風雨中における満潮時刻に最高潮位に達した。
2 別府湾における高潮調査
10月9日および13日の2日間にわたり別府湾沿岸について、現地踏査を行い、高潮現象の別府湾内分布に関する概観をつかむことができた。しかし災害の甚しい所では、危急の際のこととて地元民の記億が到底正確なことを期待することができず、わずかに現場における物的証跡もしくは地元民の経験談を綜合して、その概要を彷彿し得たにすぎない。
調査の一般方針としては、物的痕跡によって最高水位を確め、あわせてその発現時刻を知ることに重点を置いた。最初は浸水退水の経過をも調査して、時刻と潮位の関係をグラフにでも作りたい希望をもって出発したのであるが、資料の確度は到底この期待に副いがたいことを知って、上記二項に主力を注ぎ、他は参考的の資料として蒐録するに止めたものである。
浸水のシミもしくは塵芥などの附着した痕跡により、あるいは住民の記億によって指示する最高水位にもとづき、クリノメーターと巻尺とによる簡単な水準測量を行って、現海面または高潮発生後における最高海面の痕跡との高差を算出したものである。この方法は海岸に近い地点でなければ行いにくいことと、当初の目的が海岸における高潮の分布状態を調査するにあった故、陸上遥かの場所や河川の中流にまではおよぼさなかったので、これらの方面は他日の調査にゆずることにした。
偏差とあるのは、踏査当日の測定時刻における推算潮位面との差によってさらに高潮発現当時の推算潮面に対する偏差を求めたもので、気象の影響がない場合の海面に比較して、何程高かったかを示すものである。推算は、呉、那覇などの標準港における満干潮の時刻と潮位を水路部発行の潮汐表より求め、これをもとにして同潮汐表所載の各港に対する更正値を加え、その他の満干時および潮高を求め、さらにこの値に必要時刻に対する補正を加えたものであり、このようにして求めた各港の値からさらに距離などを考慮に入れ、それぞれ推算したものである。多少の誤差はあるが、平均において0.1米程度には正しく出ているものと考える。しかし浸水痕の高さは波の影響のある所では当過高に見積られているらしい。
測定に当っては、なるべく波をよけた所、例えば岸壁のないゆるやかな傾斜を持った海岸とか、河川の出口で橋畔の風波の当らぬ所とか、小船溜りの内港で水面の撹乱の少ない所を撰んで痕跡を求めたのであるが、そのような便宜のない場所ではいちじるしく波の影響が入っていると考える。
以下別府湾各地における調査の結果を詳記する。
(a)佐賀関町下浦港
今回の台風襲来に際しては、主として南東の暴風(最大風速は南東32.1メートル、佐賀関製錬所観測)を湾内に直角に受け入れたためか、海岸線に並んだ家屋は風波の激突によって倒壊家屋1戸の外、板壁、雨戸、硝子戸、屋根乱の損傷、防波堤の決潰など、多数の被害を蒙っていた。倒壊家屋のあった港左岸の給油所附近において、地元民の話によって最高潮位を求めてみると、海面上(調査当日、10月9日15時00分の海面)223センチメートルとなり、高潮発現当時の推算潮位に対する偏差は+145センチメートルである。但しこの場所は風波に直面した地点であったため、人々の目測はやや過大になることは免かれないから、この値には充分の信頼はおけないが、他に便宜な測定地点が見当らなかったので、仮にこの値を採用した。またその発現時刻については2、3人の記億に基いて綜合推定すると21時20分±10分となる。
(b)佐賀関町上浦港
当港は上記下浦港とは腹背の位置にあり、北北西に向って別府湾に開いた小港で、今回は主として南東風を背後の山地でよけ、風下に当っていたため、吹寄せてほとんどなく、風速は概して弱かったため、風波による被害はなかったが、高潮により海岸線の土砂が所々崩壊しているのが見受られた。海辺で出漁準備中の一漁師の記億によると、潮が一番高くなったのは21時20分ごろで、その時の海水面は鉄道線路(海岸線に沿って走る佐賀関鉄道)すれすれまでに達し、枕木は洗れていた。潮はその後30分位して徐々にひき始めたが、1時間位はかなり高かった。今回は風が陸地から海に向って吹いたので風波は高くならずにたすかったと。この時の海面(10月9日14時00分)から鉄道枕木までの高さを求めてみると267センチメートルであった。
最高水位の測定…ゆるやかな傾斜をもった海辺の砂丘上に高潮当時の痕跡を残して一列に点在する塵芥の集積が明らかに認められたので、この高さを海面上から求めてみると265センチメートルであり、これは先に漁師の記億により求めた鉄道線路枕木の高さと略一致する。そこで上浦における最高潮位は現海面上265センチメートルとし、推算潮位に対する偏差を求めると+115センチメートルとなる。その時刻は漁師の記億の確からしさにより21時20分ごろとする。
(c)坂の市
当地附近の海岸線は別府湾に臨んで、東南東から西北西に走る砂浜で、海岸線に沿い松樹の防風林が並び、高潮はこの防風林地帯に浸入し、乏田部落ではこのため住家全半壊合わせて6戸の被害を出した。
日吉原の海浜にある大分県立東豊高等学校坂の市校舎において、当日の宿直に当っておられた某教官の当直日誌から高潮による校舎内の浸水の模様を時間的に知ることができ、且つ校内の案内を乞うて諸種の痕跡等に基じて次のような信頼すべき資料を得た。この地点は小川の出口で直接風波の当らぬ測定にとっては好適地であった。
当直日誌より
午後8時30分 海水堤防を越し始む
午後9時10分 校内の廊下浸水し始む。
午後9時20分 教室内浸水深さ10センチメートル、この深さ約20分間続く。
午後9時40分 海水引き始む。教室内の水位次第に低下
教室内板壁に附着している高さ10センチメートルの痕跡および廊下堤防などの高さを海面上(10月9日12時10分)から求め、さらにそれぞれ推算潮位に対する偏差を求めると次のとおりである。
すなわち最高潮位時刻は21時20分、高潮発現当時の推算潮位に対する偏差は+100センチメートルである。なお当直教官の話では、海水は海岸線から150米位まで浸入し、風は主として南東風であったため風波は概して高くなかったと、浸水最中にこのように沈着に状況を記録された貴重な資料は、吹き寄せはほとんど除かれたと考えられるこの地帯の高潮の経過状況を示すものとして特に注目される。
(d)大分
大分川左岸、河口附近(海岸線から100メートル)の直接風波の当らない地点を撰んで、附近に居住する人の話を基にして提防上に残された塵芥の痕跡などを考慮に入れて、現海面(10月19日14時30分)からの高さを求めると175センチメートル、偏差は+111センチメートルとなる。高潮当時防災警備員の浸水状況報告の記録から最高潮時を求めると21時30分となる。
(e)白木浜
海水浴場附近、別府-大分間国道海辺側に並ぶ住家の一つについて、同家主人の話をもとにして、屋内浸水状況について測定すると、偏差は+106センチメートルとなる。同家は外側に板塀があり、この塀を回って浸水した海水の屋内潮痕によるもので、波の影響はよけてある。最高水位に達したのは21時30分ごろで、床板が浮び上ったとのことである。
(f)別府市北浜海岸
当地は荒波が岸壁を洗い、一般海岸においては、潮位の昇降を見定め難く、ことに打ち揚げられた海水は余勢を以て国道電車軌道面に浸入し、波頭は高くコンクリート岸壁に打ちかぶり、国道沿岸に並ぶ旅館の三階にまで浸入する状況にあったため、特にこれらの障碍を避ける地点でなければ観察報道は徒らに誇大に失し、高潮調査に期待するところは少ない。外湾の怒涛を避けて小船の溜り場となる築港内水面の昇降は幾分一般潮高の目安として役立つと思われたので、測定は内港の船溜り内に求めた。闇夜危急の際、しかもはなはだしく動揺した水面をほとんど直感的に観察したその不確かな記億を喚起して語る住民の言説は著しく水位の見積を過大にするものと考えられたので、これら住民の語る水位については単に参考までとし、他に測定の方法を求め築港内を詳細に観察して回ったところ、この船溜り内に高潮の高さをやや正しく推定し得る唯一つの材料として、内港北岸の石垣が、当時岸に繋ぎ忘れてあった伝馬船の尾端の摩擦衝突によって小波を受けた穴である。しかもこれはこの船溜り内で得られた唯一つの資料であったから、同型の伝馬船について船尾の上端と海面との距離を測ってみると85センチメートルとなり、穴の高さは海面(10月12日17時50分)より258センチメートルとなったので、高潮当時の推算潮位に対する偏差は+121センチメートルになる。しかしこのような槽状港内に怒涛が進入する時は、静振の発達をみる可能性があると考えられるから、多少の補正を要するものと思われるが、験潮記象がないので、単に推測にとどまるのみで、これらの詳細については明瞭でない。従って仮にこの値を採用しておく。高潮時刻は地元民数名の語るところを綜合し21時30分±10分と推定する。
(g)別府市餅ヶ浜
海水浴場附近の砂浜に並ぶ住家の一つで、浸水状況について家人の話を綜合、屋内潮痕に基いて測定すると、推算潮位に対する偏差は+126センチメートルとなる。同家は周囲をカナメの生垣で囲まれ、海水はこの生垣を通って屋内に浸入、内側の白壁に潮痕を残したもので、波の影響は一応よけたものと考えられる。最高水位に達したのは家人の話により21時30分ごろと推定される。
(h)別府市亀川
古市橋の下手における測定は10月13日9時30分の海面上120センチメートルで、推算潮位に対する偏差は+131センチメートルとあたえ、最高水位に達した時刻は、附近住民の方々の記億を綜合して21時30分から21時40分の間を平均して21時35分ごろと推定する。
(i)豊岡
橋畔空地の面上30センチメートルであったという地元民の言による潮位と、橋脚に残る潮痕の高さとはよく一致し、測定の結果10月13日10時の海面上125センチメートル、偏差は137センチメートルとなる。最高水位に達した時刻は地元民の話すところを綜合して午後9時半少し過ぎ、すなわち21時40分ごろと推定される。
(j)日出
駅前広場の北側にある木材会社事務所内の板壁に残る潮痕によって測定すると、海面(10月13日10時40分)の上117センチメートル、推算潮位に対する偏差は+127センチメートルである。同事務所に居住しておられる事務員の方の話によると、当地では18時ごろから風はかなり強さを増したが、南東風であったため、風波は概して高くなかった。このたびはラジオによる気象情報が早くから徹底していたため、海岸沿いの住家では昼の間に畳をまくり漁船なども陸揚げして、避難準備を完了していたため、浸水した家もかなり多数にのぼったが被害はほとんどなかった。この事務所で午後9時半ごろから約1時間にわたって床下がつかったが、最高水位時は21時40分ごろと推定される。
(k)杵築
当地は長方形をした杵築湾の湾奥にあり、湾は南東に開き、当時の風波を最もよくはらんだためか、県下における被害の最も大きかった所に属している。杵築町城鼻に居住しておられる元朝鮮総督府の土木関係に勤務しておられた中溝某氏の厚意により諸種の貴重な調査資料を得たが、同氏の語るところによれば、潮は13日の午前9時30分前後にかなり高くなり、その後次第に引いたが、最も引いた時でも平常の低潮位より遥かに高かった。それが午後の潮では8時前後より目立って上り始め、その後約1時間半程を経て急昇し、9時半ごろには庭前の石段の上端に達した。その後潮位の増し方はやや緩漫となり、10時ごろ庭面上2センチメートルに達したのが最高水位となり、その後は次第に引いていったと。また風の最も強かったのは午後9時から10時ごろまで約1時間にわたる南東風で、その後南西から西の順に変ったらしい。現海面から同氏宅の庭前石段の上端までの高さを測ってみると344センチメートルであった。これにより前記庭面上2センチメートルを加えて推算潮位に対する偏差を求めると+155センチメートルである。最高潮時は前記により22時0分ごろとする。
また塩田区東側の農家について、山下某氏宅の浸水状況について測定すると、偏差は+157センチメートルとなる。これは同家内潮痕によるもので、波の影響はよけてある。塩田区面は海水と化し、逃げ遅れて二階に難を避け、かろうじて一生を得た家人の談によると、21時40分ごろから22時20分ごろまでが最も潮が高かったと。
また塩浜の農家某氏方倉庫内の潮痕による測定では、現海面(10月13日16時10分)からの高さは342センチメートルであり、推算潮位に対する偏差を求めると+153センチメートルである。
以上を綜合し、杵築湾内杵築町における最高潮位時刻は22時0分ごろ偏差は+155センチメートルを採った。
なお、塩田区の農家二階建瓦葺(建坪20坪)が示すように北西方向に約700メートル国東鉄道橋下附近まで、また海浜の農家(本家瓦葺15坪)が西北西方に約400メートル、いずれも最高潮位時前後にそのままの状態で水面に浮かび潮流に流されている。これにより当地における潮の侵入方向が推察される。
当地の潮害が甚大であった原因として、湾向が波の衝撃を助けたこと、湾形が潮高の増大によっているのではないかと疑わしめる節がある。すなわち台風中心の接近に伴い外洋から伝播して来る海面振動と湾の固有振動週期とが共鳴を起し高潮を特に大きくしたのではないかとも考えられるのであるが、この点については湾内に自記検潮儀の設備がないため、その事情を確め得なかったことは遺憾であった。
【出典:大分県災害誌(調査編)】
【出典:1950/9/13 21:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 981.2hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1950/9/13 22:30
- 最大風速の風向
- 南東
- 最大風速
- 19.2メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1950/9/13 21:50
- 累積最大降水量
- 680ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 阿蘇野
- 日最大降水量
- 395ミリ
- 日最大降水量観測地
- 阿蘇野
- 最大日降水量の観測年月日
- 1950/9/12
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- -
- 死者・行方不明者数
- 7人
- 負傷者数
- -
- 住家全壊/全焼数
- 132戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 512戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- 2526戸(棟)
- 床下浸水数
- 8028戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 882か所
- 橋梁被害
- 116か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- 5,390,560 千円
主な被害
マップを見る杵築湾の湾奥で南東に開いていたため、風波を最もよくはらみ県内でも被害の最も大きかったところの一つである。高潮により通常より155センチ水位が上昇した。
高潮により通常より157センチ水位が上昇。地区は一面が海のように浸水し、2階建瓦ぶき(建坪20坪)の農家が北西方向に約700メートル国東鉄道橋下附近まで、そのままの状態で潮流に流された。
高潮により通常より153センチ水位が上昇。また農家(瓦ぶき15坪)が西北西方に約400メートル、最高潮位時前後にそのままの状態で潮流に流された。
高潮により通常より106センチ水位が上昇し、住宅に浸水があった。
荒波が岸壁を洗い、打ち上げられた海水は国道電車軌道面に浸入し、波頭は高くコンクリート岸壁に打ちかぶり、国道沿岸に並ぶ旅館の3階にまで浸入した。また高潮により通常より121センチ水位が上昇していた。
高潮により通常より126センチ水位が上昇し、海水浴場附近の砂浜に並ぶ住宅に浸水があった。
駅前広場の北側にある木材会社事務所内の板壁に残る痕跡によると通常より127センチメートル水位が上昇していた。風波は概して高くなかったことと、ラジオによる気象情報が早くから徹底していたため、海岸沿いの住家では昼の間に畳をまくり漁船なども陸揚げして、避難準備を完了していたため、浸水した家もかなり多数にのぼったが被害はほとんどなかった。
南東の暴風(最大風速は南東32.1メートル、佐賀関製錬所観測)を湾内に直角に受け入れたためか、海岸線に並んだ家屋は風波の激突によって倒壊家屋1戸の外、板壁、雨戸、硝子戸、屋根乱の損傷、防波堤の決潰など、多数の被害を受けた。倒壊家屋のあった港左岸の給油所附近において、住民の話による高潮の最高潮位は223センチメートルだった。
高潮により海岸線の土砂がところどころ崩壊しているのが見受られた。海辺で出漁準備中の漁師の記億によると、潮が一番高くなったのは21時20分ごろで、その時の海水面は鉄道線路(海岸線に沿って走る佐賀関鉄道)すれすれまでに達し、枕木は洗れていたという。当時の海面から枕木までは267センチメートルであった。
高潮が防風林地帯に浸入し、住家全半壊合わせて6戸の被害を出した。
高潮のため教室内が高さ10センチメートルにわたり浸水した。
高潮のため、住宅の浸水が25戸あった。
高潮のため、道路の決壊1.5キロメートル、住宅の浸水50戸、流失が25戸あった。
高潮のため、住宅の全壊3戸、半壊3戸、浸水が30戸あった。
高潮のため、住宅の浸水44戸、堤防の決壊51メートル、畑の流失が1町歩あった。
高潮のため、堤防の決壊3.0キロメートル、水田の冠水60町歩、住宅の流失が22戸あった。
高潮のため、水田の浸水15町歩、住宅の浸水60戸あった。
高潮のため、堤防の決壊1.5キロメートル、田畑の浸水40町歩、住宅の流失が18戸あった。
高潮のため、堤防の決壊0.1キロメートル、道路の決壊0.2キロメートル、住宅の浸水が300戸あった。
高潮のため、堤防破損0.3キロメートル、住宅の浸水が31戸あった。
高潮のため、堤防の決壊0.6キロメートル、水田の冠水が94町歩あった。
高潮のため、堤防の決壊0.3キロメートル、水田の冠水28町歩、住宅の浸水270戸あった。
高潮のため、堤防の決壊0.4キロメートル、水田の冠水60町歩、住宅の浸水が13戸あった。
高潮のため、堤防の決壊9ヶ所、住宅の浸水が33戸あった。
高潮のため、住宅の浸水150戸、道路の決壊0.1キロメートル、3戸の住宅が倒壊した。
高潮のため、堤防の決壊1.0キロメートル、住宅の浸水が90戸あった。
高潮のため、堤防の決壊0.3キロメートル、住宅の浸水が192戸あった。
高潮のため、堤防の決壊0.2キロメートル、田畑の浸水7町歩、住宅の浸水が68戸あった。
高潮のため、堤防の決壊0.2キロメートル、住宅の浸水が20戸あった。
高潮のため、住宅の浸水が165戸あった。
高潮のため、住宅の浸水が212戸あった。
高潮のため、住宅の浸水が217戸あった。
高潮のため、堤防の決壊1.0キロメートル、住宅の浸水が1220戸あった。