被害【明治26年10月台風第2号】下毛郡豊田村下宮永新刎
|災害番号:002330|固有コード:00233011
- 市町村
- 中津市
概要(被害)
この集落から鶴居村大字高瀬までの間は、水の勢いがもっとも激しい場所で、土地がえぐれて小さな湖ができたり、岩などが堆積しして小さな丘が出来ることもあった。
災害概要
明治26年10月13日から15日にかけての、大分県の風水害は実に数百年来という未曽有の被害をもたらした。昔からの言い伝えでは寛永年間にこのような大きな災害があったということだが、おそらく今回ほどは激しくなかっただろう。そもそも今回は川の濁流が溢れ洪水をもたらしただけでなく、猛烈な風や高波が一気に発生し、人の住むところはこの被害を免れることはできなっかたため、これまでにない残酷さを極めたことは十分わかるだろう。特に今年は春と夏の間の頃から、雨が降らない期間がほぼ3ヶ月になり、田畑は日照りの害を受け、虫の害が各地で発生し、たちまちに拡大勢いを増した。秋のなると雨が若干降り、枯れかけた稲もようやく元気を取り戻し、虫の害も駆除や防御の効果が出てきて県民はみなほっと安心して、まもなく収穫の時期だというにあたって全く思いがけないことだった。再びこのような天変地異を被るとは本当に嘆き辛いことだ。
10月10日より曇りの日が数日にわたり、12日になって雲の色が暗くなり低くたれこめ、時々少しの雨を降らせて天候がなんとなく悪くなりそうな様子だったが、13日午前1時ごろやや雨が強くなり、さらに勢いを増して午後4時には風も雨も猛烈になり、さらに大小の河川は増水の兆しを見せた。続いて14日午前3時になり激しい風が吹き荒れ、お盆をひっくり返したような豪雨となり、多くの川が決壊し、一瞬にして多くの生命財産を流し、一気になにもかもを奪い去ってしまった。
この日の出水の時間は、各地多少の差はあるものの、早くて未明、遅くて午前7時で、水が引いたのは午前4時から、最も遅かったところで翌日に及んだところもあった。また川の増水が猛烈だったため、わずか数時間の間で、県内の橋は大小強弱の区別なくほとんど流出し、道路も国道、県道、里道を問わず、ひとつとして昔の姿を保っているところはなかった。また沿岸の各地は高波により浸水し、西は福岡県境から、東は宮崎県境までの110里の間は、港、堤防、田畑はほとんど被害を受けて、元の様子のままである場所はほとんどなかった。ただ猛烈な激しさだったわりに、死者が多くなかったのは発生が昼間だっためである。もし夜に災害が起きていたらもっと死傷者が出ていたことは間違いない。これは不幸中の幸いと言うべきだろうか。
大分測候所における当時の気象状況は次のとおり
10日は南、または南東の和風が吹き、気温は16度から25度。気圧は1016.4ヘクトパスカルで、前日より少し下がって、午前6時10分から雨が降った。天候はやや悪くなったが、さしたる異常はなかったが、そのあとに気圧計の数値が次第に下がり、南からの風になり、13日午後2時から天気が悪くなる兆しがあって、気圧計はどんどん下がって、1009.6ヘクトパスカルを示し、風はまた強くなって、この日の正午になり、北東の強風が吹き、気圧が下がっていくのもどんどん速くなり、1時間1.47ヘクトパスカル下がり、翌14日の午前4時になり、気圧は996.1ヘクトパスカルまで下がり、空の色もますます悪くなり、午前5時からかなり激しく荒れてきた。このとき気圧の降下もさらに激しくなり、1時間3.2ヘクトパスカルまでになっても上昇の気配はなく、ますます下がる様子で、天気は猛烈に悪くなり、雨はお盆をひっくり返したような様子で、1時間の降雨量は23.1ミリの多さまでなった。そのあと風の勢いもいっそう激しさを増し、午前12時まで11時間ずっと東からの暴風が吹き続け、0時30分になって風が急に弱まり、1秒時間7.2メートルの疾風になり、正午から気圧も少し高まったとはいえ、午前1時から北東の風が北北西に変わると、再び強風になり、8時にまた疾風になり、雨はまたくやんだ。翌15日午前6時には北西の和風になり、気圧計はだんだん上昇し、午前2時には1009.2ヘクトパスカルを示し、風の強さも次第に衰えて、ようやくおさまってきた。ちなみに今回の暴風雨は近年稀に見る強風をもたらし、これを明治24年9月14日の暴風雨と比較しても、最低気圧は9.73ヘクトパスカル高かったが、1秒間の風力は逆に6.3メートル強かった(編集者注:大分県水害誌明治26年、気圧は水銀柱ミリメートルから現在使用されているヘクトパスカルに換算している)。
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
①県内被害の概略は、死者280人、負傷者97人、死畜209頭、流失および倒壊家屋6044棟、浸水家屋15334棟、被害田畑宅地塩田等4900町余。
今各郡に於ける当時の状況を挙ぐれば次の如し。
2.各郡の被害状況
(イ)大分郡
本郡に在っては、大分町、鶴崎町、高田村、戸次村および大分港等を以て、最も被害の甚しき所とし、桃園、別保、松岡、竹中、判田、賀来等の諸村また皆之と伯仲の間に居れり、大分町は県庁所在の地にして、戸数3000、人口15000余、北は海浜にして、東南に大分川あり、該川氾濫して市街を横流し、海潮暴漲して滔々地を捲き来て其流水を支え、為に一層の水量を高め之を以て瞬時の間にたち、大分全街は変じて一面の湖海となり、街路の加き、深きは人頭を没し、各家に在ては床上5.6尺乃至12尺、其浅きも床下におよばざるはなく、剰す所は唯県庁、裁判所、寺院等高所に在る3,4の建物に過ぎず、其流失家屋および死亡者の多からざりしは、流水と海潮と相支持し、流勢急激ならざりしに由る。是れ不幸中の幸と謂うべく、然れども障壁の如きは概ね潰崩せざるはなく、其悲惨凄愴の状況実に想像の限りにあらざるなり。
鶴崎町は大分町を距る2里余の東方に位して、大野川未流の沿岸にあり、故に此地は古来水害を被ること少なからざるを以て、住民皆避難の術に慣れ、用意最も疎ならざりしも、如何せん其水量非常に高く、実に古来末曽有の大洪水なりしを以て、二階其他高所に搬出せし家財物品等皆一蕩して剰さず、加え沿岸の家屋は或は流亡し或は壊倒し、また或は数抱巨大の大樹根技附着のまま大厦堅倉を突串するあり、如此有様なるを以て、其僅に剰す所のものも多くは傾斜屈曲し而して障壁落ち床板脱し、四柱以て僅に其転覆を支うるのみ、流亡の地は或は礎石散点し、或は一大溜池を為すあり、また此地流未に小中島と云う一つの洲島あり、一潟直に地を穿ち去りて10数丁の間磧地となり圃園林薮の跡更に見る所なし、但し鶴崎町の被害は其上流なる字丸亀の堤防潰決し奔流の是より其背後を突貫せしに由る。其水勢の猛烈なる。所謂一潟千里損傷の大なる知るべきなり。
高田村は鶴崎の上部にして、仍ほ大野川に沿い而して其支流乙津川の廻環するあり、本村の被害は鶴崎に比し更に一層の酷烈を加え、就中最も惨害を極めたるは大字鶴瀬(一名鵜獵ヶ瀬)の地にして、屋背に乙津川の大堤防あるもの数百間一時に潰決し、之がために家屋の一斉に流亡せしもの凡そ30余戸、為に其居住者中多くは溺流し、即ち鶴瀬一部にして行衛知れざる者60人、而して家屋流亡の跡を見るに沙礫渺茫一大磧地となり、更に屋片礎石等の存するなし、故に其旧様を知らざる者に在ては、看て以て旧来の磧地と做し、其惨害の酷烈なるを弁ずるに由なきの情あり、然れども熟々其四辺の形状に就て観察を下すときは、自ら之を知るに足り、人をして悲哀の情惨瞻の念に堪えざらしむるものあり。四野凄愴として鶏犬の声なく、而して渺々たる磧上に悄然佇立する老媼あり、潜然涕泣する小婦あり、また高呼喚叫以て母を追うの児女あり、或は死体を捜索物色するの壮丁あり、監視救済に関するの吏員等之を訪うも茫然として応ずる所なく唯槯残の樹梢に流塵の掛留し凄風に歴乱するあるのみ、鳴呼世間何物か又之に比するの惨害あらんや、本村死亡者77人、
戸次村は又高田の上流にして大野川に沿うて部落を為せるものなり、本村部落は概ね平野にして、水面と殆ど高低なく、また大野川の旧流域にして古川と称する川筋あり、平素は流水なしと雖も、もと本流の直径に当れるを以て、霖雨等の際は旧河川に復し、水量また小ならず、而るに堤防は新古とも一帯に天然の丘陵林薮に依り特に築工を用ゆるものあらず、是れ蓋し水流の激当衝突甚しくして尋常堤防の能く防禦し得べからざるの地なるを以て、古来特に丘陵の如き緩大なる盛土を以て林薮となし、以て堤防に換えたるものならん。
其林樹は多くは杉材にして一帯の老松を交え森々繁茂し、河川に沿うて連亘たり、然るに水量の大なる膨漲の激なる、乍ち其森林丘陵を崩潰して流勢一面となり濁水■浸全部落を没し、各戸の浸水概ね床上5,6尺に至る。但し当部落は地形低きが故に家屋は皆路面より5,6尺の高きに在り、而かも猶其浸水の床上5,6尺なるは、以て水量の大なるを知るに足る、又丘陵を潰決し土沙を流入せしを以て、流失を免かれたる家屋に在ても屋内淤泥堆積して脛を没するに至る当地は高田村の如く数十の家屋を一斉に排湯せしものなしと雖も4,5戸若くは7,8戸各所に於て流亡し、而して其流亡と共に家人を併せて埋没したるもの少なしとせず、今其二三を挙げんに中津留各地に在ては6軒の内4軒を流亡し死者11人また或る地に在ては一家8人家屋と共に皆流没し或はまた9人の家族中8人溺没し1小女の流材堆積の間に圧せられ却て死を免かれたるあり。
また或は終日蛇蝎と共に樹上に在て漸く一生を得たるあり、または古来浸水の虞なき高所の堅屋と為し衆人の頼を以て避難し来りたるもの乍ち蕩尽して痕跡だも止めざるあり、其悲惨の状謂うべからず、而して減水の後死体の出没するを見る者頗る多く就中母子相擁するあり、兄弟相繋ぐあり、其親族旧故等之を得之を視て慟哭衰叫するの状実に悲惨の極、其状況今猶眼中に在て去らず、其惨害豈に又深且つ大ならずや、又本村に於ては前顕の如く防水の林丘を蕩尽し地骨を露出せるの有様なるを以て自から河流の注入を免かれず、加之古川筋は砂礫堆積して分流を擁塞せしを以て、若し一朝霖雨等あらば流水一に新川路により再び此惨害を被るべきの恐あり、是を以て同部落の人民は災後更に一層の苦心を生じ寝食だも安せず、此防水の設計は最も焦眉の急に属し、危険実に謂うべからざるなり。本村死亡者50有余人、流亡の牛馬50有余頭。
大分港(或は菡萏港と謂う)は県庁を距る27丁西方に在り湾に依りて3万に石堤を築き汽船其他船舶の常に出入碇泊するもの多く、本県に在て最も要港とする所なり、其築港は竣成後未だ年久しからざるに、乍ち海哺の打破する所となる。遺憾謂うべからず、柳々当日海上の状たる風向北東猛威を逞うし之に加うるに豪雨覆盆地を刺すの勢あり、然るに又海哺滔天を撼かし大涛激浪以て大小船舶を震蕩し、乍ち埠頭岸下の別なく一上一下打去り打来り看々潰崩粉砕し湾上又船影を止めさるに至る如此猛烈なる有様なりしを以て、築堤は漂材船舶以て之を衝き激浪以て之を蕩去し、或は岸上に大船を撑置せるあり、海王雨師風伯の合艇して兇威を逞うせしを以て、其現況の猛悪激烈なる終に名状すべからざるなり。是より西別府湾に至る沿岸の国道3里の間は山崩れ岸欠くるもの10数ヶ所。而して崩土倒木以て途上乍ち山を作り林を為し欠岸壊途以て乃ち巌骨を露し砂磧在現し道路全く杜絶するに至れり、別府港も亦大分港と同じく築堤を砕破し船舶を滅烈し剰すもの僅に数艘に過ぎず、海辺の一温泉場新湯なるものに在ては数舟累々串入するを見る。又此地は市背の一渓流(朝見川と言う)堤防を決壊し溢流の家屋田園を浸すありて、其被害亦軽からざるなり。但し別府は速見郡に属すと雖も被害の関係により茲に附記す以上の外各村被害の惨況は皆軽少ならずと雖も大同小異なるを以て之を略す。
(ロ)宇佐郡
本郡は駅館川其中部を貫き、而して北方は海に瀕す、駅館川は其源を速見郡由布岳に発し、而して諸川渓流の漾合するもの夥多なるを以て出水の際は水勢一時に加わり頗る強大なり、当日の増水は其国道たる駅館村舟橋の在る所に於て平水より高きこと2丈4.5尺、而して、被害の最も大且つ惨なるものを挙ぐれば、竜王、安心院、駅館、長峯等の数村とす。竜王村は駅館川の上流にして、数流域の間に介在し且つ山を負うの地なるを以て、堤防の潰決橋梁の流失および家屋の被害等頗る多きのみならず、山岳崩壊の大なるが為に一層の惨害を極めたり、其地たる大字今井にして其岳上崩潰し砂石泥土を伴うて、潰落し濁流混々以て下辺数10の家屋を破壊埋没し、其深きこと数尋におよべり、此際遁脱すること能はずして、流没せしもの7,8人にして、其死体を発見せしもの僅に両個、而して、今日に在っても誤て其深泥に陥るときは、乍ち埋没して免るるを得ず、加之猶其近傍山岳に於て将に潰裂せんとするものありて頗る危険の状を呈せり、故に本部落は今後の風雨に際し又如何なる変状を呈するや知るべからず、為に住民皆其堵に安んぜず、全部落挙て他に移住せんとす、其状実に憫諒に堪えざるなり。
安心院村は、竜王村に隣接し、而して川流の衝に当れる地なるにより堤防の潰決するもの少なからず、是を以て浸水砂入の田畑等多くして、其被害前村に譲らざるなり。
駅館村は国道線に属し、駅館川に沿うの地なり、故に其氾濫の衝に当れる部落、即ち法鏡寺(地名)、川部、畑田、上田等沿岸の地は居家田畑一体に崩壊し流没し、其のたまたま存在の家屋も戸々皆傾斜屈曲し甚しきは半ば深泥に埋没するあり、就中法鏡寺は堤防壊決の為に13戸中1戸を除く外、他は皆流亡して形跡を止めず、此辺一面の沙漠と変じ而して最も無情悲惨に堪えざるは、一立の共同墳墓地崩壊して白骨の砂上に散乱せる是なり。また川部は其戸数凡そ120戸、概ね潰倒埋没、一も完全なるものあるなし、此地死者少なからず。即ち或は翁媼共に潰屋に圧せららるあり、夫婦相携えて深泥に横わるあり。而して暴溢の最も激なる所新に一条の流域を為し前後河流も囲続せらるるに至れり、是を以て吐地の住民は遁路を失し頗る避難に窮したりしも之に比し、死者の甚た多からざりしは誠に僥倖と謂うべきなり。
長峰村は赤尾字本谷の被害を以て最も激烈なりとす。即ち此部落の上辺に上下相重なりて2個の大溜池あり、堤防高くして且つ巾広く築造最も堅牢と呼ぶ者、連日の豪雨に瀦水充満せしを以て池下の人民戮かし百万其潰決を防ぎ且つ減水の策を施したるも其効なく、既に潰裂せんとするの状況に迫りしを以て、老幼相携えて近傍の丘陵に攀ぢ登るや乍ち潰裂し、其奔流滔天の勢を以て家を捲き地を穿ち看々一条の川流を現出し、大字大根川に至り天立川を経て下毛郡今津浦に突出せり、之が為に家屋流亡し、又其僅かに流亡を免れたるも家財器具及貯穀類皆一掃せられて刺すところなきに至れり、其の激烈なる知るべきなり。
其の他柳ヶ浦村、和間村、津房村、両川村、糸口村、横山村等、其の被害の度皆之と大差あるなし、又本郡に在っても八面山の崩潰により其害を被るもの少しとせず、而して沿海に属するものは皆海嘯の害を以て大とするも其状況一に枚挙に遑あらざるなり。
(八)下毛郡
本郡は福岡県に隣して山国川に沿い、而して一方は海浜に属す、是を以て該川及海浜一帯の地、被害最も大なり、山国川は非常の洪水にして、平水より高きこと3丈23尺、故に其の沿岸村落は、其の害を被らざるもの一としてあるなし。就中被害の最も大なるは上津村大字跡田、即ち耶馬橋近傍より下流とす。堤防の潰決するもの数10ヶ所田畑、宅地等の荒廃に属せしもの亦数10町歩の多きに渉り、殊に鶴居村大字高瀬字甘木より豊田村大字下宮水字新刎に至るの間は水勢の最も猛烈を極めし地にして、或は奔流地を穿ち為に一の小湖を為すあり、或は石礫堆積して一の小丘を為すあり、其惨状実に言うに忍びず、家屋の破壊流亡等亦頗る夥多なりと雖も其浸水の最も甚しきは中津町にして、殆ど全市におよび、其状況大分町に異ならず。犬丸川筋は其水源なる八面山の欠潰数10ヶ所におよび、尚山下に位する深秣村大字源水(地名)の地所々に陥落を生じ孰も多量の濁水を噴出せしため、渓流忽ち暴漲し田圃家屋等を押流し良田変じて河川となり、河川却て荒蕪の地となるあり、其水勢の劇烈にして、惨害を極めたるの状況想見するに堪えたり、加之山口村に於ては猪の河内池の堤塘潰決し、是亦非常の暴威を逞うし之が末流なる犬丸川に沿うたる大幡三保尾紀桜州等の諸村は河水の氾濫せしため多少の損害を被らざるなく、実に未曽有の変事と謂うべきなり。
沿海地方被害の現況は位置と堤防の長短等により小差ありと雖も大江村字竜王新開より桜洲村大字鍋島に至る一帯の地は皆害を被らざるものなく、就中尢も甚しきは大江村の内米山新開 和田村の内涛崎新開にして、米山新開と山松新開の中央に人家24戸涛崎新開の北隅にも亦10余戸ありしが孰も怒涛激浪の為に堤防潰決の恐れあるを以て強壮の者悉く之が防禦に従事し、百方、尽力せしも怒涛山の如く、加うるに山国川及他より漂流し来れる無数の木材は激浪に捲かれ怒涛と共に堤防に突衝し終に堤防潰決するに至れり、是に於て家屋および貨財を顧るの遵なく漸く老幼婦女を扶けて一生を得たるも、堤防は悉く破壊し、家屋は怒涛一繋の下に破砕せられ、又一の形体を止めず、又米山新開も僅かに3戸を剰すのみ、而も其家財は悉皆流失し共に目下の衣食に窮するの悲境に陥るものあり、又和田村大字田尻の大半は塩田によりて生活をなすもの一朝海嘯の洗う所となり、貯塩多きは200〜300石、少きは4〜5石、加うるに貯溜の塩水も皆一掃し且つ其荒田は復旧の見込なきを以て、多数の細民は忽ち活路を失し他の扶助を得て僅に露命を維持するも、其窮迫且夕にあり、其他の新開も概ね潮水の浸入等被害の状以上に異るなし、又他各村の状況も大同なり。
(二)北海部郡
本郡は大分郡の東隣にして、海浜に属し、而して一方は大野川に沿えり、道路堤防家屋田畑等の被害は素より無数、其郡衙所在の地たる旧杵市街の如き過半床上横流の浸す所となり、舟楫を以て相往来し、其最も深きは軒端を洗んとするに至り、万里橋初め、橋梁の流失するもの夥しく当時通路杜絶して市外の状況は更に知るに由なき等、実に当地に在しては古来未曽有の変事とす。其景況又大分町に彷彿たり、其他各村の被害は大同小異、山岳の崩潰するあり、海潮の浸入するあり、其惨況枚挙するに遑あらず、就中大野川の沿岸、即ち大分郡松岡村の対岸なる川添村大字宮河内の如き、近時1万円許り賛して築造せし一大石堤なるも、乍ち潰決して奔流直潟地を穿ち田を洗い直に一面の湖海と変じ、村役場近傍に於て水量3丈余為に家屋の流亡破壊するもの数10戸、溺流するもの20余人、其奔流地を穿つの所一大楠樹の周囲四、五抱なるを洗出し其上に又二抱余の老松顛仆するあり、蓋し楠樹は此の老松の生育己前に在て既に埋没せしものに係ると言う。果して然りとすれば其楠樹は幾百千年を経たるものなりや知るべからず、帷うに是亦往古洪水等地変の為に埋没したるものならんか、今や又未曽有の大洪水に依て現出するに至るに奇ならずや、其水勢の非常激甚にして猛烈なる知るべきなり、東大在村死体の漂着するもの少なからず、而して或は手足断ち頭髪脱し身体完具せるもの稀なり、是れ奔流激浪に捲去打撲せられたるに由るが、其惨状見るに忍びざるなり。此外各村の被害又孰も軽少ならざれども其状況大同なるを以て略す。
(ホ)西国東郡
本郡は宇佐郡に接し海に沿うて東北に突出せるの地なり。本郡中被害の状を観るに其最も甚しきは呉崎村及高田町とす。而して呉崎村は其村内の中央を横断する広瀬川および南部を通過する石部川共に膨漲し、広瀬川千間堤の東方なる田圃を一面に浸し尋て其流勢逆行して北部の人家に浸入し深さ乍ち2尺内外におよび、又石部川汐除堤防広瀬川を南北に隔る5〜6町の間に於て5ヶ所、其他堤防処々潰決し漲流の湊注する所、地底を穿つこと数尋の深きに至る。此数ヶ所の壊堤の為に東方の浸水は稍々減量せしも同時に西方の田圃一斉に増水し、且つ時恰も満潮に際し、広瀬、石部両河口より潮水浸入し其逆行の勢力頗る猛烈、為に上下相激して放水の途を塞ぎしより更に一層の水量を高め作物は悉く水底に没し、全面恰も海洋の如く人家も亦皆其中に在て浅きも3〜4尺、深きは床上4〜5尺に及び、加之風勢強暴屋を破り樹を倒し、此時又海嘯の相応するありて、激浪船舶を捲き怒涛堤防を衝き、其勢最も猛烈、為に沿岸の家屋は悉く破壊流亡に罹り、田畑又全形を保するものあるなし、夜半におよんで漸く風雨共に減勢せしも爾後数日の間猶未だ浸水の去らざるもの数所あり。
高田町玉津村も略々右に同じく桂川膨漲して玉津村市街を浸し、高田町は幸に家屋甚しき浸水に至らざりしも字新開一円湖海と変じ白波天を打つの勢あり、両所とも如此有様なるを以て遁路に迷い他に避くること能わず、僅に其水中の家屋に在て他の救助を待つと雖も如何せん風雨水勢共に猛烈にして船を行る能わず、着々夜に入り終に救助の術なく潮く翌15日の未明に至て之を救出するを得たり、陸上既に如此又海上の風波は更に一層の猛威を逞し、波涛の動揺山の如く、為に其船舶の破壊漂流するもの幾許なるや知るべからず、即ち今に至るまで沿海に死体の漂着せるもの少なからず、当日海陸険悪の概況想見すべきなり。
(ヘ)南海部郡
本郡は北海部郡の南東に在て、猶海に沿うの地なり、其災害の景況又北海部に似たり、夜来の風雨異常にして佐伯町の如き、番匠川水量着々上騰し、為に消防組は東奔西走死力を尽して防禦すと雖も奈何せん、風雨益々加わり殊に海水膨脹し、為に各所の堤上に漲り奔流一面に迸入し遂に市街一円に浸水となり、深きは床上7〜8尺より2〜3尺、其景況最も危殆是を以て市街の混雑大方ならず、少壮者は老幼を扶助に忙わしく各戸競うて助舟を呼び、甲に庇すれば乙に便ならず、其間又貨物を舟送するもの10数艘、市街に縦横来往する等、実に名状すべからず、幸に白昼且つ午後3時頃より減水に傾きたるを以て、市内には死傷者あらず、又他村々に在ても或は堤防潰決山岳崩潰家屋の流亡人畜の死傷耕地を荒し家財を失う等其惨状謂うべからず、当地19年の洪水(明治19年)に比し、水量高きこと数尺、故に其損害悲惨を極むるの状更に一層の甚しきものあり、一々名状するに忍びざるなり。
(ト)その他の各郡
上記の外、大野郡、玖珠郡、日田郡、直入郡、速見郡、東国東郡等孰も皆大害を被らざるなしと雖も、其状況前項に掲ぐる各郡とは其状況梢々軽きに属するを以て之を略す。
【出典:大分県災害誌 調査編(1952)】
【出典:1893/10/14 06:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 984.7hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1893/10/14 10:30
- 最大風速の風向
- 北東
- 最大風速
- 26.6メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1893/10/14 10:30
- 累積最大降水量
- 403.4ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 大分
- 日最大降水量
- 283.9ミリ
- 日最大降水量観測地
- 大分
- 最大日降水量の観測年月日
- 1893/10/14
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- -
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- -
- 死者・行方不明者数
- 226人
- 負傷者数
- -
- 住家全壊/全焼数
- 1846戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 1547戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- -
- 床下浸水数
- -
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 11557か所
- 橋梁被害
- 2362か所
- 山・崖崩れ
- 10308か所
- 被害総額
- 3,958 千円
主な被害
マップを見る干拓堤防のそばに建立された石碑。
1893(明治26)年10月の台風によって発生した高潮により堤防が決壊した。
【碑文 大意】
明治4年に阿部源三郎氏が十数名の新開組合を立ち上げ、
奥平藩からの許可を得たが、作物は約20年間うまく育たなかった。
明治26年の大洪水により堤防が決壊したため、その修繕について繰り返し議論をしていたが決着しなかった。
そこで、不肖ながら孫三郎が修繕を単独で断行し、その後西国東から農家四戸を移住させ、次第に増加していった。
ついには収穫総面積が5町8反あまりとなった。
【碑文】
明治四年阿部源三郎氏發起新開組合十数名
得奥平藩許成雖然作物未熟約二十年明治二十
六年大洪水堤防決潰屡次議終繕不決於兹不肖
孫三郎單獨断行後自西國東令農四戸移住漸(彳に斬)次
至挙収穫總面積對五町八反余被公定地價
大正十五年秋
阿部孫三郎建之
※裏面の碑文の画像・翻刻は「デジタル拓本」による。【出典:碑文】
明治二十六年の慰霊碑は大野川堤上にあったが、昭和十八年の洪水で流されて以来行方不明であった。ところが昭和五十二年九月鶴崎自動車学校の校舎建築の際工事現場から碑の一部が出土した。同校は地元自治委員と相談し碑の再建を進め、昭和五十二年十二月に完成し同二十二日に遺族や佐藤大分市長、地元関係者、自動車学校関係者など約五十人が集まって除幕式と供養を行った。再建は(総事業費約三十万円)全て自動車学校のご厚意によるものである。爾後二十五年経てその老朽化と周囲の環境の変化により維持管理が困難となり遺族だけの保持も出来がたく、社会福祉協議会に相談したところ、それが自治会に伝わり鶴瀬だけの問題ではなく高田校区の問題として取り上げられ、再建の運びとなった平成十五年三月竣工して、七月二十日校区あげて水難慰霊祭が執り行われた。
【出典:続高田村志(高田公民館ふるさと講座, 高田公民館, 2012)】
明治26年10月の水害で犠牲になった生徒8名の石碑。以下のような記載がある。
大野川概毎秋溢漲陸沿川皆其被害高田及我鶴崎亦其一也 五十年以前我不知之五十年以後大溢三今秋為絶殊今秋十月十二日及十三日風盲雨怪十四日水大至被害極甚而高田之為最挙大者家之流亡九十三人之漂没八十鳴呼惨哉所就学高田尋常小学校子弟八人居其中同学生憐其非命間祭教員教員高其誼共同志輩議祭以成其志且刻石八人氏名在下(後略)
明治二十六年十二月十五日 處士毛利莫撰 印
題字大分郡長正七位小倉左文書
【碑文内容】
明治26年(1893)10月13日からの大雨により、大野川が氾濫し、甚大な被害をもたらした。
大分市高田地区では93名が亡くなり、その中には当時高田尋常小学校の生徒8名も含まれていた。
(大分市防災局防災危機管理課提供)"【出典:続高田村志(高田公民館ふるさと講座, 高田公民館, 2012)】
古くから水害が多かったこの町は住民も避難に慣れており、用意はおろそかではなかったが、水量が非常に高く未曾有の大洪水だったため2階や高い場所に避難させた家財道具などは流されてしまい、加えて沿岸の家屋は流出や倒壊した。また大木も根っこがついたまま流れ丈夫な倉庫に突き刺さるなどあった。わずかに残った建物も傾いたりして壁は落ち床板ははがれ、四方の柱が残ったため転覆は免れたような状況である。被害の大きかった場所は建物の基礎の石が散らばり、大きな溜池ができたりした。鶴崎町の被害は上流の丸亀地区の堤防が決壊し、その背後をつかれたのが原因である。水の勢いは猛烈だった。
大分町、鶴崎町、高田村、戸次村に次ぐ被害があった。
大分町、鶴崎町、高田村、戸次村に次ぐ被害があった。
大分町、鶴崎町、高田村、戸次村に次ぐ被害があった。
高田村の上流にあるこの村は大野川に沿って集落がありその多くが平野で川の水面とほとんど同じ高さで、さらに大野川の旧河道である古川という川筋があり、普段は水は流れていなのだがもともとは本流だったので、長雨のときにはかつてのように川になって水量も少なくないため堤防は新旧とも一帯の天然の丘陵地に頼るという状態だった。これは水の流れが相当に激しいためふつうの堤防では防ぎきれないので、古来から丘陵のような盛り土をして木などが生えて堤防にしてたのだろう。
今回の洪水ではその木の生えた丘陵が崩れ濁流は村の全戸を浸水させ、その高さは床上5、6尺までの高さになった。ただしこの地域は土地が低いため家屋は道路から5、6尺高くなっている。それでもこの高さというのは水量がいかに高かったかがわかるだろう。また土盛りの丘陵が決壊したため流出しなかった建物のも中は泥が堆積してすねのあたりまで埋まるほどだった。ここは高田村のように数十戸の家が流出したということはないが、4、5軒もしくは7、8軒の家が場所をおいて流出し、土砂に埋まった住民も少なくない。またある場所では一家8人が住宅とともに流れ、また9人の家族の中で8人が溺死し、小さな女の子だけ流木の間にはさまりかえって助かったということもあった。
また終日木の上に避難してようやく九死に一生を得た人もいた。また昔から洪水になるからと高所の丈夫な家だと周囲の人が避難したが流れてしまいその痕跡もないほどの場所もあり、どれだけ悲惨か言葉もない。水が減った後、死体が出てくることがとても多く親子で抱き合う者がいたり、兄弟で手をつなぐ者がいたりしてその親族や友人などはこれを見て大声をあげて泣き叫んだ。この村では堤防代わりの丘陵が崩れて、大野川の本流からの水が流れ込んでしまい、加えて古川の周辺は土砂が堆積して分流をふさいでしまい、もし長雨などあれば本流から同じような被害が起きるおそれがある。この村の死者は50人あまり、牛馬の被害は50頭あまり。
高田村は大野川と乙津川にはさまれ、その被害は鶴崎に比べいっそう激しいものだった。死亡者は77人にのぼった。
大分町、鶴崎町、高田村、戸次村に次ぐ被害があった。
西国東郡の被害でもっとも被害が大きかったのは、呉崎村と高田村である。呉崎村は、村の中央を流れる広瀬川と南部を流れる石部川がともに増水し、広瀬川千間堤の東の水田を一面に浸水させ、その流れが逆流して村の北側の住宅に入り深さは2尺(60センチ)ほどになった。また石部川、汐除堤防、広瀬川を南北に隔てる5、6町歩の間において5か所、そのほか堤防がところどころ決壊し、溢れた水が流れ込むところ、地面を押し流すところは数尋の深さにもなる。この堤防の決壊で東側の水は徐々に減ったものの、西側の水田が一斉に増水し、さらに満潮の時刻に重なり広瀬川、石部川の両河口より海水が流れ込み、その逆の流れの勢いは猛烈で上と下からの流れで放水することができず、いっそう水かさは高くなり作物はほとんど水に浸かり、周囲は海のようになり住宅も浅い場所では3、4尺(90〜120センチ)、深い場所では4、5尺(120〜150センチ)になり、加えて風も強く屋根が壊れ、木が倒れ、激しい波は船を巻き込み堤防に当たり、勢いは猛烈だったことから、沿岸の家屋はほとんど全壊、流出し、田畑もその形を保ったものはなく、夜になって雨や風は弱まったものの、以降数日の間、水が引かなかったところも数か所あった。
猪の河内池の堤防が決壊したため、下流の犬丸川に沿った、大幡村、三保村、尾紀村、櫻州村は河川が氾濫し被害が出た。
猪の河内池の堤防が決壊したため、下流の犬丸川に沿った、大幡村、三保村、尾紀村、櫻州村は河川が氾濫し被害が出た。
大雨により大きな被害が出た。
大雨により大きな被害が出た。
猪の河内池の堤防が決壊したため、下流の犬丸川に沿った、大幡村、三保村、尾紀村、櫻州村は河川が氾濫し被害が出た。
猪の河内池の堤防が決壊したため、下流の犬丸川に沿った、大幡村、三保村、尾紀村、櫻州村は河川が氾濫し被害が出た。
住宅の倒壊や流出など非常に多く、下毛郡で最も激しかったのが中津町。ほとんど全市街地に及びその状況は大分町と変わらなかった。
大雨により大きな被害が出た。
大雨により大きな被害が出た。
大雨により大きな被害が出た。
駅館川の上流にあるこの村は、数本の支流が流れ背後に山を背負うという地形から、堤防の決壊や橋の流出や家屋の被害が大きかっただけでなく、山の崩壊が大きかったために被害は大きかった。
川の流れが合流する場所にあり、堤防が決壊する場所も少なくなく、このため水や砂が入り込む田畑が多く、その被害は竜王村にひけをとらないほどだった。
この村は駅館川に沿っているために、法鏡寺、川部、畑田、上田などの集落は、住宅や田畑が一緒になって地盤が崩れ水没し、たまたま流出しなかった住宅もすべて傾き、ひどいものは半分泥に埋まったものもあった。
大雨により大きな被害が出た。
この村は駅館川に沿っているために法鏡寺、川部、畑田、上田などの集落は、住宅や田畑が一緒になって地盤が崩れ水没し、たまたま流出しなかった住宅もすべて傾き、ひどいものは半分泥に埋まったものもあった。
本谷の上流にある溜池が決壊しその流れが襲った。
この村は駅館川に沿っているために法鏡寺、川部、畑田、上田などの集落は、住宅や田畑が一緒になって地盤が崩れ水没し、たまたま流出しなかった住宅もすべて傾き、ひどいものは半分泥に埋まったものもあった。
被害が激しかったのは、この集落にある耶馬橋より下流。数十カ所以上の堤防が決壊、宅地などが荒れ地になった場所も10町歩にもなった。
万里橋をはじめ橋が流出した場所を数多く、道路が寸断され市街の状況は知ることができなくなっていた。
桂川が増水して市街地は浸水した。
沿岸部では被害がもっとも大きかった。激しい波のために堤防が決壊するおそれがあると、力のある男たちがこれを防ぐために尽力するが、波は山のような高さで、さらに山国川などの河川から流れてくる無数の木材は波に巻き込まれ堤防にぶつかりついに決壊してしまう。家屋や家財のことを気にする余裕はなく、老人や小さな子ども、女性を助けて九死に一生を得るものの、堤防はことごとく壊れ、家屋は波で破壊されその形をとどめず米山新開では3戸が残るのみで、家財はことごとく流出しているので、目下の生活に困難をきたした。
猪の河内池の堤防が決壊したため、下流の犬丸川に沿った、大幡村、三保村、尾紀村、櫻州村は河川が氾濫し被害が出た。
崩落が数か所で発生し、被害が出た。
集落の人たちの大半は、塩田で生計をたてているが大波に洗われ、貯蔵した塩について多いところは200から300石、少ないところは4から5石、さらに貯めていた塩水も流れてしまった。塩田は復旧の見込みがなく多数の住民は活路を失った。
この集落から大江村字竜王新開に至る一帯は、被害のない場所がなかった。
八面山のふもとに位置するこの集落に土石流が襲ったため、田んぼや住宅などを押し流した。米のよく取れる田んぼは川になり、逆に川は荒れ地となった。
被害が激しかったのは、この集落にある耶馬橋より下流。数十カ所以上の堤防が決壊、宅地などが荒れ地になった場所が10町歩にものぼった。
この集落から櫻州村大字鍋島に至る一帯は、被害のない場所がなかった。
本谷の上流にある溜池が決壊しその流れが行き着いた。
この集落から豊田村大字下宮水までの間は、水の勢いがもっとも激しい場所で、土地がえぐれて小さな湖ができたり、岩などが堆積しして小さな丘が出来ることもあった。
洪水より10数丁の間に土砂が堆積し田畑や木など流され、なくなった。
大雨による洪水で、6軒のうち4軒が流出。死者11人。
港は完成からそんなに年数が経っていないにもかかわらず、大波によって崩れてしまった。当日は北東の風の猛烈な風が吹いていたのに加えて豪雨が重なったために大波が大小の船舶をふるい動かし、埠頭か水面下の区別なく波が上下してみるみる船を粉砕し、水面からその姿が消えた。このような猛烈な状況で築堤は壊れた船がぶつかり流れ出し、あるいは岸壁の上に大きな船が乗り上げたりするような状況だった。
漂着した死体が少なくなく、中には手足が取れ頭がない状態のものもあり、人間の形をしたものは珍しいくらいだ。これは激しい流れに巻き込まれ打ち付けられたためだが、その様子は見るのもはばかられるほどだった。
海岸にある温泉場に船が流れてきた。
洪水による鶴崎町の被害は、上流の丸亀地区の堤防が決壊し、その背後をつかれたのが原因である。