被害【大正10年6月大雨】大分郡西庄内村西久保山 小谷橋
|災害番号:002683|固有コード:00268330
- 市町村
- 由布市
概要(被害)
20代の男性が橋を渡ろうとしたときに橋ごと押し流され行方不明になり、捜索が行われた結果、19日正午西庄内村上武宮の西の谷川の岩に遺体となり引っかかっているところを発見された。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
災害概要
入梅に先だち、大正十年六月九日より降り出した雨は連日晴間を見せず、旬日蔭惨な天気が続いていたが、六月十七日午前三時頭から豪雨となり、三隈川は次第に増水し、午前九時には一丈一尺の増水、午前十時頃には一丈五尺の水位を示すに至り、河畔の民家では家財を整理して待避の準備をするに至った、午前十一時頃雷鳴を伴う大豪雨となり、上流の山崩れの爲増水は絶頂に達し、遂に一丈八尺の水位を突破する、銭淵橋,小渕橘、筑後川軌道の庄手橋等、三隈川架設橋梁は悉く流失するとともに、各所の堤防は概ね決潰して、濁流は猛烈な勢で日田町に浸水し、隈町の目貫通りで道路上二尺から四尺、浦川原庄手中の川附近で約六尺浸水を見るに至った。
①大分測候所発表
十七日の降雨量は九十粍八で一坪面一石六斗八升、又十八日午前十時の降雨量は六十六粍で一坪面一石二斗一升である。
今回の大雨は十六日支那揚子江下流に、七百四十二粍の低気圧発生し、十七日刺支那東部に現れ同日正午黄海の中部に出て、夕刻其の東部に進み、九州の北西部に著しく現はれたのと、一は十六日支那抗州に現れた低気圧が十七日支那東岸に出で、日向灘に進み九州南北両面に低き低気圧の中間に挾まれ、九州の大雨となったのである、この低気圧は尚紀州沖、遠州灘にあって、東北東に進んでいるから十九日も降り続くであろう。
降雨量(大分市)
自六月九日至六月十八日午前十時 三九○粍七 一坪面六石九斗六升
①水郷日田滔々たる濁水の中に浮く
六月十七日午前九時より三隈川は刻々増水して正午頃は、銭淵橋附近で増水量一丈七尺に達し、流石に水郷を誇る日田の町も氾濫する濁水に覆はれ、混乱する避難民の阿鼻叫喚の巷と化した
②妻子を見殺しにする
日田地方水害に就ては到着後調査を進めているが、今迄聞き得た内最も悲惨なるは、大山村中川原で、上流の大野川方面の山崩各所に夥しく生じたる為、二十三戸の部落殆んど全部が濁流と土砂に押し流され、或は押潰され全部落は瓦礫の河原と化し死者十三名を出し惨状見るにしのびないものがある
殊に同所に於て最も悲惨なるは、建照寺の隣家某は、学校に子供を迎えに行きたるに、其帰途に橋が流失して渡られず、眼前に我が家が押流され、妻子が浮きつ沈みつ流れるのを見ながら救助する途なく遂に見殺しした
③分教場流失
日田郡高瀬村高瀬尋常高等小学校、後河内分教場は今回の洪水にて流失し、同校拝戴の教育勅語謄本を流失した
④悲惨一家十八名流さる
三芳村字小淵水車業樋口判治家族一家八名、赤尾勘次家族六名と、偶々雨宿りせる馬原村繭売女二名、水見物に來たる二名、計十八名の男女が見る間に押流され、赤尾勘次は家の二階より飛出し竹田河原の大木に泳ぎ着き一命は救助されたが、同人妻ヒサの屍体は翌日光岡村の田圃の中に足丈現はれ埋もれ居るを掘出したるに、同人なりしが、背負いなる子供の姿は見えず、帯のみ止まりいたるは悲惨の極みなりき 目下消防隊、青年会員、警察官が協力して避難民の援助保護に努むると共に、埋れたる遭難者の発掘、屍体捜査に全力を尽しつつあるも、今朝二十三日迄に発見せる者は想定死者七十三名中十二名のみなり
⑤竹田川原の霊木
六月十七日、竹田河原にて作業中の者二十二名は、椋の大木に登りて避難せるを、午後六時に至り一應減水せる為め附近の者は食事を運び同九時頃より一人宛救助するを得た
叉高瀬小一と小竹久吉の二人も今回霊木によって命拾したが、此二人は明治二十二年の大洪水にも此の椋の木で助かった由で、実に奇跡に近い、明治二十二年の洪水では実に五十有餘人の者が救助されておる
★参考
霊木保存記念碑(碑文)
此ノ蒼鬱トシテ繁茂セル林木ハ明治二十二年七月五日洪水ノ際附近ノ耕耘二従事セル者六十三名漲水ノ爲メ帰蹄ヲ失ヒタルモ、此ノ椋木ノ枝幹ニ登攀シ幸ニ九死二一生ヲ得タリシ二歳ヲ経ル三十三年ノ昨年六月霖雨連旬十七日ノ朝溪水氾溌シ忽チニシテ山裂ケ樹ヲ抜キ嵓ヲ飛バシ大力高楼倒頻スルノ惨状ハ有史以来未曾有ノ珍事ナリ此ノ時ニ当リ椋下住スルモノ他ヨリ漂流シ來タリシモノ三十名ノ男女再ヒ此ノ樹ニ攀チテ其軀ヲ全フスル事ヲ得タルハ天祐ナリト雖此ノ椋木ニ不思議ナル霊威アリト調ツヘシ今茲ニ此ノ椋木ヲ保存シ当時之悲惨ヲ永ク紀念セントスルモノ也
大正十一年五月十五日
樹種 椋 目通園囲 約一丈二尺 樹高 約八丈
野村穆 記 樹齢 約弐百年
⑥判明した流材六十万円
日田竹木商組合で調査したるところによれば流材約十万本と言はれ、郡内に漂着した材木は漂着地に其儒無償にて寄附したので、沿岸各町村では漂着した材木を引揚げて売却し、被害民の救済資金に充当したのでその多きところは数万円に達する所がある,叉組合では三隈川の下流筑後川の沿岸並に有明海の各警察署に流材の盗難の虞なき様、電報を以て依頼するとLもに、組合の店員三十有余名が、各漂着地に出張して整理しつつあるが、杷木久喜宮等は漂着木材実に数万円に達しておる模様である、尚遠く有明湾を渡り島原附近一帯の沿岸に材木或は家財の漂着せるものある由にて、日田警察署より保護を依頼した。
⑦町長熊谷頼太郎氏と語る
六月二十二日午後一時、日田町役場に熊谷町長を訪へぱ、実に明治二十二年以来の大洪水であると頗る当惑した面持で語る。水害を被った者は単に日田町のみでも、流失家屋二十七戸之に附属家屋十九戸居宅全壊十五戸、半壊のもの六十六戸で浸水家屋は実に九百六拾壱戸に及び田圃の流失埋没五十余町歩、同浸水五十三町歩、畑埋没五町五反、浸水六町歩、宅地の埋浪千五百坪浸水六万五千坪、山林原野の崩壊流失十町歩で今表面に現はれた損害額でも百五十万円に達しておる、之に個人として後藤豊三郎氏の如きは木材のみで約七万円の流失を見、呉服商の反物或は旧家の書画骨董品の流失したものは其の損害額の見当がつかぬ 死者は只一人あったのみだが廿二日に遺骸を発見することが出来た、町としては倒潰家屋の復旧及義捐金の募集等八方救済に力を尽しつつあるが、交通が全く杜絶し音信不通の孤立地となつた爲、十年以前の日田町に帰つたと同様である云々
⑧悪臭放つ目貫通り
日田町の目貫通り庄手堀田町一帯は床上迄浸水したので、減水迄全部二階住まいをしておった、二十二日は洪水以来始めて日和を見たので、泥まみれとなった家具衣類等を道路の狭き迄に乾してある、畳建具の如きは殆ど黴を生じ且つ半ば腐蝕せるものも多く、臭気紛々としてあたりに漂い、如何にも大水害後の惨状を思はせる、三隈川岸に沿ふ紺屋町、田中町に入って益々其の惨状を加え、九水営業所附近よりは浸水実に庇に支へ、各家の壁土所々に崩れ落ちたものが多い、三隈館から上一帯の河岸に臨んだ家は石垣崩壊の為め、全部半切となり、頼山陽仮泊の如斯亭も亦大半水に流されている、川原町若宮八幡宮附近の民家は倒壊して惨状言語に絶す、続く三芳村小淵は玖珠川と大山川の合流地点で、二十餘戸を流失し、家宅の跡は大石落下して、元からの川原であった感じをさせる。
⑨名書画の流失
今度の水害で惜しいことをしたのは、日田町山川小一郎氏方の宝物庫の流失である、同家は昔日田代官の御用商人を勤め同町屈指の旧家であった、同家の庫には夥しい高価の家具類や書画骨董品が診蔵されていた、其の一部には雪舟の羅漢の二幅対、兆殿司の仏画、應挙の三副対、桃山城の牡丹彩色画の天井板、大石良雄の手紙等、其他唐の幅物、支那製の家具類は元より淡窓、五岳、竹田等同県の文人墨客の書面類凡てを一朝にして流失したことは全く惜しいことである。
⑩耕地流失して一面の荒廃地
高瀬村大字高瀬方面は前津江村より流るる高瀬川の両岸堤防は殆んど決潰し、耕地は流失崩壊し荒蕪地叉は川底と化し、再び耕地に修築の見込みなく被害高は見積り難し、又三隈川沿の垂水、今市附近は見渡す限り白砂の河原と化し農民は復旧の術もなし、名物台霧の簗附近から島内新地附近も塁々たる小石の山をなして唯見る一面の荒廃地である五和村下石井の沃田数十町歩は見渡す限りの砂山と化し唖然たらしむ
⑪通信交通の途を絶つ
電信電話は去る十七日以降全く不通なりしが、福岡方面に対する分は廿日午前十時五和村字長溪に発信所を仮設し停滞の分を発信し、全日午後六時日田局迄通じたるも、大分方面の通信は今尚不通なり
郵便物は二十日午前九時福岡県浮羽郡千足町迄停滞分を発迭し、去る十六日以降福岡方面より来たりて千足町に停沸せる分は、二十一日同地青年団員十六名逓送を担当し二十一日夕刻始めて日田町に到着し、同夜より二十二日朝にかけて日田町に配達したり
大鶴、西有田の両局開通の外は、今尚各局共交通杜絶の為め逓送は勿論配達不能なり、日田局より福岡方面は朝倉郡久喜宮局を経由して逓送しつつあり、交通は保木駅迄筑後軌道が運転しておるが石井駅迄は今後弍ケ月間を要し、日田町迄の復旧は見込みたたず
⑫大損害を受けた九水
今回の大洪水で大抽審を強けた九水電気会社発電所中、今尚運転休止中のものは、玖珠川筋の女子畑、湯山、野上の三発電所であるが、野上発電所の故障は水路の破損で、葱雨三日中に復旧の見込、叉浸水で損害の甚だしき女子畑、湯山両発電所は目下発電気の乾燥中であるから運転開始迄には十余日かかる、石井発電所も運転休止中であるから、九水会社は電力の供給に不足を來し、之が補充のため小倉九軌から約七千キロを受けておるか、それでも不足だから動力供給に多少削減を加へて居るけれども、一部伝えられてるような筑豊炭田地方の炭坑の動力不足を來して、廃坑したり休止したりするやうな心配は絶対にない、近日中に完全に復旧する
之につき日田大分間連絡の同会社の送電水路は大破損を来し、殊に玖珠郡森町から日田迄の間は損害最も甚だしく日田玖珠方面は暗黒の世界であ
るが、全速力で修繕を加え、二十一日試運転をやったが、1時間で再故障を来し迭電不能となったから、重ねて修繕を加え二十二日夜から送電が出来る予定
⑬女子畑貯水池決潰のデマ飛ぶ
大洪水の翌十八日午後三時頃、女子畑貯水池決潰のデマ飛び、隈町一帯の住民はとるものもとりあえず、泣き叫びながら豆田方面に避難を始めて、非常な混乱を來した
九水日田営業所では直ちに「貯水池安全」の張り札を出して、人心を安堵させた
⑭水害哀歌 津崎光生
水引きし 街上に澄める水 たまり
陽にてらされて 魚の骸いくつ
倒れ伏しみだれうずもり 見る限り
潰れし街に 日はおとしたり
ひろびろとひろがりゆける 大川なか
いさすかの洲に 屋根あがりけり
遠目にも なびき伏したる 鉾杉の
刹日たる肌は まざまざと見ゆ
洗はれて 川つらに垂れし 杉の根の
白々乾きて 川ぞひどてに
山をなし打あげられし 材木見ゆ
川原の中の 大木のもと
屋根破り ふかくはまりて 母屋の上
電信柱 倒れかかれり
かたぶきて 庭の大樹にもたれいる
草ぶき屋根に穴ほげてあり
家つづき 十一軒が流れとふやしきの
あとに幾つの水溜り
流れつくせし 我が家の 水たまり
その子等はねて浴みはねおり
民家の跡に溜れる 水の中
児が浴みをれぱ おやは見てあり
かの限り石原となりし 小田の中
思わぬ川は水あげており
田中大分県知事は六月二十日、中津町にう回して耶馬渓を経て、同日午後三時頃日田に来り水害地を視察した結果、
左の通り内務大臣に被害状況を報告した
今回の水害は同地方未曾有の被害で、今尚交通、通信機関恢復せざるもの日田郡に二ヶ村ありて詳細は判明しないが
死亡者 72
負傷者 9
家屋流失 353
家屋半壊 204
浸水家屋 3500
橋梁流失 37
鉄橋流失 4
道路破壊 23 延長約4里
堤防決壊 21 延長約3000間
田畑埋没流失 600町歩
交通は玖珠方面は車馬不通、筑後軌道は久留米保木間のみ運転し居れるが、保木石井問の復旧開通を見るには今後二ケ月を要すべく、日田、石井間の復旧は今の所見込み立たず、損害は高瀬、大山、前津江方面を最とし、全額弍千万円を上る予想なり
★日田町大字隈及竹田庄手
全町浸水し、其中川原町若宮八幡宮附近の拾数戸流失、半壊二十余戸死亡一名
★三芳村
小淵橋附近 死亡十五名 流失二十五戸
★高瀬村
死亡十二名 流失四十三戸
★大山村
字中川原死亡十八名 流失四十七戸 半壊三十戸
★中川村
九水発電所湯山、女子畑両発電所土砂浸入、当分復旧見込なし、死亡二名 流失二十戸 発電所社宅全部流失
★前津江村
死亡十三名 流失十七戸
★馬原村
死亡二名 流失十九戸
★光岡村
流失六戸
★夜明村
流失五戸
★五和村
流失十三戸
【出典:日田水害誌(池田範六,1950)】
災害データ
- 最低気圧
- -
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- -
- 最大風速の風向
- -
- 最大風速
- -
- 最大風速の観測地
- -
- 最大風速の観測日時
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- 累積最大降水量
- -
- 累積最大降水量観測地
- -
- 日最大降水量
- -
- 日最大降水量観測地
- -
- 最大日降水量の観測年月日
- -
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- -
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- -
- 死者・行方不明者数
- 83人
- 負傷者数
- -
- 住家全壊/全焼数
- 353戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 204戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- 3500戸(棟)
- 床下浸水数
- -
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 522か所
- 橋梁被害
- 391か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- 20,000 千円
主な被害
マップを見るこの地に住む前津江村村長は、妻が濁流に飲み込まれたので、流れに飛び込み助け出したが、その間に自宅が土砂に押しつぶされ村長の両親は押しつぶされ死亡した。
【出典:大分新聞 大正10年6月25日朝刊7面】
玖珠川の増水により120間(約218メートル)にわたり決壊し、下流一帯の250町歩の田んぼはことごとく土砂に埋まった。
【出典:大分新聞 大正10年6月26日朝刊7面】
住宅が水に流され、家族3人が数時間、杉の木の上に避難し助かった。
【出典:大分新聞 大正10年6月26日朝刊7面】
平川の増水により橋が流失、付近の家屋4棟も押し流された。
【出典:大分新聞 大正10年6月26日朝刊4面】
地区の200戸が浸水して、道路上では約2尺(60センチ)の浸水となった。
【出典:大分新聞 大正10年6月26日朝刊4面】
7戸全部が全壊して3人が死亡した。
【出典:大分新聞 大正10年6月24日朝刊4面】
水害により1人が遺体で発見された。
【出典:大分新聞 大正10年6月25日朝刊4面】
水害により3人が遺体で発見された。
【出典:大分新聞 大正10年6月25日朝刊4面】
60代の男性が、30間(54.5メートル)あまりの高さの山腹に上って放水路を掘っていたところ、突如地すべりが発生してこの男性がその土砂にのったまま滑り降ちて自宅の屋根の上に落ちかかり、足にけがを負った。
【出典:大分新聞 大正10年6月25日朝刊7面】
男性2人、女性3人、子ども3人、合計8人が死亡した。
【出典:大分新聞 大正10年6月23日朝刊4面】
女性1人、子ども4人が死亡、17戸が流失、20戸が半壊した。
【出典:大分新聞 大正10年6月23日朝刊4面】
山崩れのため集落18戸がすべて崩壊し、11人が生き埋めになった。(24日の記事には12人が生き埋めになり4人が救助されたとある)9人が遺体で発見された。
【出典:大分新聞 大正10年6月23日朝刊7面】
16戸のうち流失家屋が7戸、半壊2戸、土砂が流れ込んだ家屋が3戸あって、被害を受けなかったものは4戸のみで、2人の死者を出した。
【出典:大分新聞 大正10年6月24日朝刊4面】
19戸のうち11戸が全壊した。
【出典:大分新聞 大正10年6月24日朝刊4面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月22日朝刊4面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月22日朝刊4面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月22日朝刊7面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月22日朝刊7面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
住宅裏山の崖が崩れ、草ぶきの厩舎1棟が倒壊した。また警察電話の電信柱が倒れ、一時通話が不通になった。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
3000人が避難。町役場の事務所が置かれ、炊き出しが行われた。
【出典:大分新聞 大正10年6月21日朝刊7面】
連日の雨のため住宅裏山の土石が崩れ、家にいた3人が生き埋めとなった。2人は救助されたものの、1人が死亡した。
【出典:大分新聞 大正10年6月21日朝刊7面】
橋が破損した。
【出典:大分新聞 大正10年6月22朝刊4面】
8歳の男の子が真玉尋常小学校から帰宅する途中、恵良谷川を渡る際に誤って川に転落。濁流に押し流され行方不明になった。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
毘沙門川(住吉川)練兵場の東側の堤防が十数間にわたり崩れ、西新町裏一帯は一面海のようになった。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
橋が崩壊したため、別府~大分を結ぶ九水電車の海岸線が不通になり、上下線が堀川経由の旧線を経由した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
白丹小学校前の金毘羅道下から巨大な石(約7~8畳)が転落。田植え中の水田に入って大騒ぎになった。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
玖珠川の増水により流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月20日朝刊2面】
橋が破損した。
【出典:大分新聞 大正10年6月22朝刊4面】
街路上の浸水が1尺から3尺(30~90センチ)に達した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
初瀬井路の増水が市内に入らないようにするため南太平寺の水門を閉じたため、あふれた水が山南部一帯の低地にあふれ、農作物などの被害は相当大きいものと見込まれた。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
初瀬井路の増水が市内に入らないようにするため南太平寺の水門を閉じたため、あふれた水が山南部一帯の低地にあふれ、農作物などの被害は相当大きいものと見込まれた。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
初瀬井路の増水が市内に入らないようにするため南太平寺の水門を閉じたため、あふれた水が山南部一帯の低地にあふれ、農作物などの被害は相当大きいものと見込まれた。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
街路上の浸水が1尺から3尺(30~90センチ)に達した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
街路上の浸水が1尺から3尺(30~90センチ)に達した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
久住大分線県道にかかる長さ53間(約96メートル)の橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
街路上の浸水が1尺から3尺(30~90センチ)に達した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
街路上の浸水が1尺から3尺(30~90センチ)に達した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊7面】
付近の十数戸が流失、20戸あまりが半壊し、1人が死亡した。
日田久留米線の県道が25間(約45メートル)にわたり崩れたため、筑後軌道が運転できなくなり、日田地方は交通が全く途絶えた。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
40代の男性が田植えの帰りに小川を渡ろうとしたとした際に激流に押し流され行方不明になり、19日の朝、大分市の明磧橋付近で遺体が発見された。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊/大正10年6月20日朝刊2面】
10歳の女の子が学校の帰り道、大湯鉄道の踏切の水道に転落し、口径1尺3寸(約39センチ)ほどの土管に吸い込まれ死亡した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
付近の流水があふれ浸水。家財道具を片付けたり、中には市内の知人宅へ避難する人もいた。今後の雨量によっては大正7年の洪水を繰り返すのではと心配された。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
大分福岡線県道にかかる長さ49間(約89メートル)の橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
大分福岡線県道にかかる長さ44間(約80メートル)の橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
久住大分線県道にかかる長さ50間(約91メートル)の橋が流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
大分川の増水のために橋が流失。通行できなくなった。
【出典:大分新聞 大正10年6月18日朝刊7面】
大道町の片倉製糸場付近から椎迫下の田んぼに水があふれ、住宅は2尺(約60センチ)ほど浸水した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
練兵場の東側の堤防が十数間にわたり崩れ、西新町裏一帯から堀川付近に至るまで浸水の被害があった。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
裁判所前から光西寺西市場付近は下水管が壊れ、汚水が家の床にいたり目も当てられない状況だった。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
大分紡績会社前の道路は幅3尺(約90センチ)、長さ3間(約5.4メートル)ほどが崩れ通行できなくなった。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
霊木保存記念碑(碑文)
此ノ蒼鬱トシテ繁茂セル林木ハ明治二十二年七月五日洪水ノ際付近ノ耕耘二従事セル者六十三名漲水ノ爲メ帰蹄ヲ失ヒタルモ、此ノ椋木ノ枝幹ニ登攀シ幸ニ九死二一生ヲ得タリシ二歳ヲ経ル三十三年ノ昨年六月霖雨連旬十七日ノ朝溪水氾溌シ忽チニシテ山裂ケ樹ヲ抜キ嵓ヲ飛バシ大力高楼倒頻スルノ惨状ハ有史以来未曾有ノ珍事ナリ此ノ時ニ当リ椋下住スルモノ他ヨリ漂流シ來タリシモノ三十名ノ男女再ヒ此ノ樹ニ攀チテ其軀ヲ全フスル事ヲ得タルハ天祐ナリト雖此ノ椋木ニ不思議ナル霊威アリト調ツヘシ今茲ニ此ノ椋木ヲ保存シ当時之悲惨ヲ永ク紀念セントスルモノ也
大正十一年五月十五日
樹種 椋 目通園囲 約一丈二尺 樹高 約八丈
野村穆 記 樹齢 約弐百年
前日来の豪雨のため、高さ8間(約14.5メートル)の運動場の盛土斜面が崩れ、水田に土砂が流れ込んで作付けできなくなった。
【出典:大分新聞 大正10年6月18日朝刊4面】
住宅の裏手の高さ20間(約36メートル)の崖から約78坪(約257平方メートル)の土砂が落ちてきて、住宅が半壊した。人的被害はなかったが、被害額は約1000円になると見込まれている。
【出典:大分新聞 大正10年6月18日朝刊4面】
小野屋~大龍間の渡し付近で魚釣りをしていた30代の男性が誤って大分川に転落し、濁流に飲み込まれ行方不明になった。
【出典:大分新聞 大正10年6月18日朝刊7面】
竹田河原で作業中の22人は、椋の大木に登って避難しているところを発見され、地元消防夫が総出で全員が救出された。このうちの2人は明治22年の洪水でもこの椋の木につかまり助かったという。
洪水で、見渡す限り白砂の河原となり農民は復旧する方法もわからないほどだった。
洪水で、多くの小石の山が築かれ、一面の荒廃地となる。
田んぼ数十町歩が見渡す限りの砂山となり唖然となるほどだった。
玖珠川の増水により浸水し、また社宅の一部も流失した。大洪水の翌日、貯水池決壊のデマが飛び、(現日田市)隈町一帯の住民はとるものもとりあえず、泣き叫びながら豆田、大原山方面に避難を始めて、たいへん混乱した。九水(=九州水力電気)日田営業ところではただちに「貯水池安全」の張り札を出して、人々を安心させた。
【出典:大分新聞 大正10年6月21日朝刊7面】
土砂が崩落して子ども2人が家屋とともに押しつぶされ死亡した。
【出典:大分新聞 大正10年6月26日朝刊4面】
上流の大野川方面の山崩が各所で発生したために、23戸の集落ほとんどが全てが濁流と土砂に押し流され、押しつぶされ、瓦礫の河原となり死者13人を出した。大山村では死者18人、47戸が流失、30戸が半壊。
【出典:大分新聞 大正10年6月23日朝刊4面】
前津江村より流れる高瀬川の両岸堤防がほとんど決潰し、耕地は流失崩壊して荒地または川底となり、再び耕地にできるような見込みはなく、被害は算出も難しい。高瀬村では12人が死亡、43戸が流失した。
洪水により流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月23日朝刊7面】
水車業の家族8人(9人という記事もあり)が家ごと濁流に押し流され、その後、別の家族6人(5人という記事もあり)も押し流された。また、たまたま雨宿りをしていた馬原村の女性2人、増水した川の見物に來た2名、計18名の男女があっという間に流され、ある者は家の2階から飛び出し、竹田河原の大木に泳ぎ着き一命を救助されたものの、その妻は翌日光岡村の田圃の中で遺体で発見された。背負っていた幼子は行方不明になってしまった。小淵橋付近では15人が死亡、熊谷医院以東の25戸が流失した。
死者2人、発電所社宅など、20戸が流失した。
崖崩れが起き住宅が倒壊。7歳の女の子が死亡した。また牛2頭、材木8000円相当も流失した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】
村内の堤防2か所が500間(909メートル)にわたり決壊したため、橋が12か所流失、住宅8戸、厩舎2棟が流失し、浸水家屋は260戸に達した。
【出典:大分新聞 大正10年6月19日朝刊】