被害【昭和51年9月台風第17号】大分市木の上
|災害番号:008570|固有コード:00857030
- 市町村
- 大分市
概要(被害)
40代の男性が井路が決壊し、かますを運搬中に足を切り軽傷を負った。
災害概要
グアム島の南東海上にあった弱い熱帯低気圧は、9月4日15時に台風第17号となった。台風は北西に進み、北緯20度線を越えた7日午後には、大型で非常に強い台風(中心気圧920ミリバール、25メートル以上の暴風半径200キロ)に発達した。台風かまだかなり南方海上を北西に進んでいた7日夜から8日早朝にかけて、県の南東沿岸部の佐賀関、佐伯、蒲江では、3時間降水量50〜60ミリを観測した。満潮時と重なったため、この方面では、床下浸水・崖崩れが発生した。台風は大型の強い勢力のまま北上を続け、9日朝には沖縄の南東海上に近づき、10日朝には奄美大島の西海上を北に進み、夜には屋久島の南西海上に達した。このころ県内では、大分市付近から県の北部のところどころで、1時間30〜60ミリの強雨が10日夜半頃まで続き大きな被害が出た。台風は、このまま九州を直撃するかにみえたが大きく予想を裏切り、10日夜半ごろから停滞気味となり、11日はごくゆっくり西南西に進み12日昼前になって再びようやく北上し始めた。台風の勢力は、若干衰えたとは言え、大型の強い勢力(中心気圧955ミリバール、25メートル以上の暴風半径200キロ)で12日夜になってやや向きを東よりに変えて北北東に進路を取り、速度もやや速くなり鹿児島県の西海上を北上、13日1時40分長崎市付近に上陸した。5時には、福岡市の西を通過し、玄海灘に出た。大分県の風雨は上陸前ごろから強まり、3〜5時ごろが最も強かった。台風は玄海灘に出たあとはますます速度を速め、日本海中部に去ったため、昼前には風もかなり弱まった。
(1)台風が、かなり離れて通過したことや、船舶などは、風に対する防災対策がとられていたため、風による被害は、比較的軽かった。集中豪雨的な強雨により、がけ崩れ・土砂崩れの被害が多く、また、中小河川のはんらん・市街地の排水が悪いことなどから、浸水の被害も多かった。特に被害が大きかったのは、大分市・別府市・杵築巿・山香町(山崩れで4人死亡)・日出町・安心院町・豊後高田市などであった。
(2)国鉄では、各地で土砂崩れ・がけ崩れが起こり、運休時間が長く、特に、大分市以北で被害が大きかった。
(3)台風が、屋久島の南西海上で足ぶみしたため、悪天が続き、各種の行事の変更、学校の休校、交通の便の乱れなどで、国民生活に大きな影響を与えた。
(4)電柱の傾斜・転倒・破損などで、停電戸数71,500戸に達した。
【出典:大分県災異誌 第4編(昭和46年~55年)(1981.12)】
【出典:1976/9/10 21:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 979.4hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1976/9/13 3:20
- 最大風速の風向
- 南東
- 最大風速
- 25.3メートル
- 最大風速の観測地
- 大分空港
- 最大風速の観測日時
- 1976/9/13 5:30
- 累積最大降水量
- 428.5ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 大分
- 日最大降水量
- 306ミリ
- 日最大降水量観測地
- 大分
- 最大日降水量の観測年月日
- 1976/9/10
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- 1976/9/10 20:40
- 死者・行方不明者数
- 7人
- 負傷者数
- 26人
- 住家全壊/全焼数
- 24戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 49戸(棟)
- 住家一部損壊数
- 1077戸(棟)
- 床上浸水数
- 2342戸(棟)
- 床下浸水数
- 11082戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 2225か所
- 橋梁被害
- 34か所
- 山・崖崩れ
- 295か所
- 被害総額
- 25,815,224 千円
主な被害
マップを見る20代の男性が流木が足にあたって軽傷を負った。
70代の女性が避難中に転倒し骨折した。
裏山のがけ崩れで40代の男性が下半身が生き埋めになり骨折した。
80代の女性が壊れた家屋にはさまりけがをした。
70代の女性が風で吹き飛んだガラスで軽傷を負った。
50代の男性が避難場所を開設に行く途中、流れ出た石につまずき重傷を負った。
20代の男性がガラスで手を切って軽傷を負った。
橋が流失した(山香町内では9つの橋が流された)。
【出典:山香町誌(山香町誌刊行会、1982)(おおいた石造文化研究会 松原保則氏の報告による)】
民家の塀が倒れて50代の女性が下敷きとなり重傷を負った。
60代の夫婦が避難中にがけ崩れに遭い軽傷を負った。
30代の消防団員が土砂崩れの応急措置中に竹が刺さり軽傷を負った。
住宅の裏山が高さ10メートル、幅8メートルにわたって崩れ落ち、約20立方メートルの土砂が木造平屋建ての住宅を押しつぶし、前の県道に流れ込んだ。住人は仕事に出かけていたため無事だった。
【出典:大分合同新聞 1976年9月10日夕刊7面】
台風のため裏山が崩れ、木造瓦ぶき2階建ての住宅に土砂が流れ込んだ。この家に住む40代の女性が土砂や家具などに体をはさまれ右足を骨折するなど重傷を負った。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日夕刊7面】
山手方向から濁流が押し寄せ、自宅近くの資材置き場で材木の整理をしていた40代の男性が材木やコンプレッサーとともに数メートル押し流された。男性は材木に足をはさまれ、左足を骨折。全治3ヶ月の大けがを負った(10日後に死亡した)。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日夕刊7面】
台風のため、大しけとなっていた豊後水道で、大分港から堺港に向かっていたタンカー(菱洋丸、52157トン)の船体が中央部で2つに折れ海中に沈める形となり航行不能になった。乗組員62人は4隻のボートに分乗して避難。近くを航行していたタンカーなどに救助された。
【出典:大分合同新聞 1976年9月12日朝刊1面】
八坂川が決壊。工場が深さ1.2メートルにわたって浸水した。製品(みかんの缶詰など)や資材倉庫のほか、機械が水浸しになり約2億円の被害となった。
【出典:大分合同新聞 1976年9月14日朝刊9面】
老人ホームが床上浸水。入所者68人は2階へ避難した。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
ラクテンチ裏の山が崩れ、現場付近をパトロールしていた50代の男性が生き埋めになった。約10分後に掘り起こされたが、全身を打ち1週間のけがを負った。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
住宅裏山のがけが崩れ、木造瓦ぶき2階建ての住宅が半壊。この家に住む50代の男性が避難中にガラスで足を切るけがをした。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
柴石川の増水で水があふれ、住宅1棟が倒壊。旅館の休憩所2棟が流出、対岸の旅館も建物が大きく傾き壊滅状態になった。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日夕刊7面】
旧宇佐自動車学校西側のがけが幅約8メートル、高さ約15メートルにわたって崩れ落ちた。がけ伝いに道が通っており、避難しようと登っていた6人のうち60代の女性が土砂とともに崖下に落ち、生き埋めになり、翌日の朝に遺体で発見された。6人は近くの不動さまに泊まり込みでお参りをしようと向かっていたところだった。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
豪雨で水路が増水していたため、草場町踏切付近を通っていた30代の女性が転落し行方不明になった。消防や警察が捜索したところ、11日午前0時過ぎに田室公園近くの水路で遺体で発見された。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
駅付近で床上浸水が発生した。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
台風のため、祓川の水が付近の住宅にあふれ、川沿いの八幡5丁目、東八幡5丁目、長谷団地一帯で床上浸水になった。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
住宅の裏山が崩壊。この家に住む60代の女性が、土砂に押しつぶされた家具の間にはさまり軽いけがをした。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
住宅の裏山が高さ20メートル、幅10メートルにわたって崩れ一家6人が生き埋めになった。地元消防団などが救助にあたり、2人は助け出したものの、この家に住む40代の男性、30代の女性、中学1年生の男子生徒、小学4年生の男子生徒が死亡した。集落は浸水などで通行不能になっていたため、救急車が現場に行けず救急活動が思うようにできなかったという。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
津房川の水が堤防を越えて氾濫。付近の10戸が床上浸水、約30戸が床下浸水した。現場は土のうを積むなど補修を行ったが、水はあふれ続け、町は約60世帯200人をバスで1キロ離れた老人福祉センターに避難させた。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日朝刊11面】
広瀬川が氾濫。呉崎地区の4区、5区を中心に200戸あまりが床下浸水したほか、特産のネギや白菜など農作物約10ヘクタールが水をかぶった。このため老人や子ども30人あまりが近くの興隆寺で一晩避難した。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日夕刊7面】
八坂川などが氾濫したため、杵築駅を中心にした生桑、大左右、野添、友清、本庄の各地区で床上浸水135戸、床下浸水47戸を出した。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日夕刊7面】
八坂川の水位が急に増え、これに山手からの鉄砲水が加わり、旧県道沿いの人家にあっという間に水が流れ込んだ。82戸ある集落の半数が濁流に洗われ、低地の家では濁流が床上1メートル以上にもなった。住人は2階や近くの小学校などに避難したが、警察がゴムボートで救出したところもあった。
【出典:大分合同新聞 1976年9月11日夕刊7面】