被害【宝永4年10月宝永地震】海部郡佐伯 養賢寺
|災害番号:000840|固有コード:00084017
- 市町村
- 佐伯市
概要(被害)
「温故知新録」の中にある「高慶公御手日記写」によると、地震による津波で大破した。
災害概要
(1)大地震、大海嘯、流家拾参軒、倒家九十六軒(佐賀関史、別府史談)
(2)西日本 地震 14時全国的地震、潰家・死傷多く、鹿児島城・人吉城など破損、南東海岸に津波、富士山の宝永山ができた。
大地震が起き津波も発生、13軒が流出し96軒が倒壊した。この記述がどの場所の被害を指すかは要検討。佐賀関か。
【出典:(1)大分県災害誌 資料篇(1952) (2)西日本災異誌】
国内最大級の地震のひとつ。東海から四国沖の太平洋海底の南海トラフを震源とする。家屋の倒壊は静岡から九州まで、津波は伊豆半島から九州までの太平洋沿岸、大阪湾・播磨・伊予・防長、さらに南の八丈島も襲った。大分県でも豊後水道から別府湾にかけて津波が発生。地震による家屋の倒壊を含めて多くの被害があった。
災害データ
- 地震発生時間
- 未刻
- マグニチュード
- 8.4M
- 震源の深さ
- -
- 最大震度
- -
- 最大震度観測地
- -
- 津波有無
- あり
- 最大津波の観測地(県内)
- 佐伯市米水津 養福寺
- 最大津波の高さ(県内)
- 11.5
- 死者・行方不明者数
- -
- 負傷者数
- -
- 住家全壊/全焼数
- 戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- -
- 床下浸水数
- -
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- -
- 橋梁被害
- か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- -
主な被害
マップを見る「「杵築町役所日記」によれば、「午ノ下刻」の地震の後、夜中まで17~18回ほど揺れたといいます。城下の下町や六軒町では、ほとんどの家が壊れ、破損のない家はなかったといいます。また、「未刻」から「亥刻」まで4回、翌5日の夜中に2回、合計6回「汐」が満ち、だんだんと規模は小さくなったと記されています。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「杵築町役所日記」によると、津波の4回目の波が、風雨の影響もあり、浜まで上がってきた(おおいたの地震と津波)。
「藩の役人が記した「日記」をみると、「午ノ下刻」に地震があり、揺れは大きかったものの、大きな被害がなかったようです。また、津波のことも記されていません。こうしたことから、現在の大分県北部(豊前国)では、地震の揺れや津波による被害は小さかったことがうかがえます。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「『中川氏御年譜』などによれば、「未ノ上刻」に地震が起き、岡城の月見櫓が崩れたといいます。この他岡城の石垣が61ケ所、塀は55ヶ所崩れました。城下でも、侍屋敷や寺社、町家が崩れましたが、ケガ人などはなかったとのことです。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、中浦の大島から蒲戸までは被害はなかった(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
「府内藩記録」によると、「新たに開発した畑地が地割れを起こし、そこから泥水が湧き出し、砂が上がってきた」(南海トラフと大分)。
府内藩の家老の記録「家中諸事書抜」によると、「津波がきたため、家中・町人達は上野原・堀切山に逃れた」(南海トラフと大分)。
地震で地割れが出来た(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)。
地震で地割れが出来た(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、船で避難しようとして15人が溺死した。以降、地震の際は船での避難は禁止された(おおいたの地震と津波)。
「府内藩記録」によると、大地震によって城や家臣達の屋敷など、建物が壊れる被害が出た。津波は大きくなかったものの、2回波が押し寄せた(おおいたの地震と津波)。
「「萬覚帳」(府内藩記録)によれば、「午之下刻」に地震があり、府内城の建物や石垣などが大破。城下の寺社や町家も大破し、亡くなる人もいました」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)領内では地割れも発生した。(南海トラフと大分)。
「府内藩記録」によると、津波のため「家中(家臣)の妻・子供や町人達は上野原へ立ち退きました」とあり、上野方面に避難したことがわかる(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。川をさかのぼり、内陸まで被害を及ぼしたと考えられる。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
「温故知新録」の中にある「諸日記」によると、「宝永四年、本町に枡形より臼坪蟹田までの間に新規に大土手を作るよう命令し、土手下の大明神松ヶ鼻へ続き本道が出来ました。」とあり、津波の後、その対策のための堤防を築くことになった(おおいたの地震と津波)。
「『稲葉家譜」などによれば、「未上刻」に地震があり、臼杵城の隅櫓などが崩れたそうです。およそ2時間後には1丈(1.8メートル)あまりの津波が襲来し、平地は一面海になったといいます。船で逃げた人々は、津波のため亡くなりました。以後は、山へ登ることとし、遠くを見る番人を置き、津波の時は太鼓で知らせるようにしました。(南海トラフと大分)」
「温故年表録」によると、家の床上より3〜4尺(約1メートル〜1.2メートル)潮が上がった。当時すぐ側が海だったこの地は、人の高さぐらいの津波が来た(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、家の床上より3〜4尺(約1メートル〜1.2メートル)潮が上がった。当時すぐ側が海だったこの地は、人の高さぐらいの津波が来た(おおいたの地震と津波)。
「温故年表録」によると、潮があふれた(おおいたの地震と津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、新たに開いた土地(新地)がかなり被害を受けた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、新たに開いた土地(新地)がかなり被害を受けた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
「温故知新録」の中にある「高慶公御手日記写」「御祐筆方覚書写」によると、津波は7回も佐伯 に入り込んだ。9尺(約2.7メートル)〜1丈(約3メートル)のところもあった。津波による死者は町人が4人(1人が女性)、海辺(在浦)の者が18人だった(おおいたの地震と津波)。地震後の対応として特筆すべきは「地震がやんだ後に津波が来るので、家中や城下の人々に山などへ逃げるよう知らせた。」「佐伯城内への避難も認め、いずれにしてもケガのないように、火の元を用心して避難することを指示。」「城内への避難をふまえ、粥などを準備させた。」こと(南海トラフと大分)。なお、佐伯城内に大きな被害はなかったが、侍屋敷はかなりの被害があった。海辺(在浦)では486軒が地震、または津波で倒壊した。2468石1斗あまりの田畑が耕作ができなくなった。
「温故知新録」の中にある「御祐筆方覚書写」によると、津波の高さは5尺(約1.5メートル)だった(おおいたの地震と津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、新たに開いた土地(新地)がかなり被害を受けた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、大きな被害がでた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、大きな被害がでた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、中浦の大島から蒲戸までは被害はなかった(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、新たに開いた土地(新地)がかなり被害を受けた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、「東(風)網代は広岡の山、本谷は尾花の下、峰押山の下は坂口まで潮が満ち、西谷は広岡の下墓原まで潮が差し込みました。」とあり、内陸部まで津波が押し寄せたことがわかる(おおいたの地震と津波)。家財道具、屋敷、畑などが流された。死者は2人(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。ただし「色利浦文書 旧記」によると、そのうちの1人は宮野浦で死んだ。また、色利、中村、すか崎の人は、尾鼻の山に走って登り、庄屋の与七郎はむねおしの山の8合目まで。東風網代の人は広岡の山へ避難した。津波は本谷は尾鼻の下まで入り込み、むねおしの下は坂口山ノ下まで潮が満ち、西谷は廣岡の墓原まで潮が入り込んだ(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、死者はなかった(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。10軒ほどの家が沖に流された(南海トラフと大分)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、死者はなかった(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。10軒ほどの家が沖に流された(南海トラフと大分)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、津波で家が浮いたものの、漁のための網を置き回したので、家財道具は少しも流れなかった。この対処は人々から褒められた(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。
庄屋成松家の「宝永四亥年高潮之記録」によると、強烈な大津波に襲われ、村はほとんど水没した(おおいたの地震と津波)。死者は18人。(宝永4年 安政元年 村の大地震・大津波)。また、「4日の八ッ時頃、米水津の南の方で大きな音がすると、すぐに大きなゆれに襲われ、立っていられなかった。」「八ッ時の下刻には、波が浦中に満ち、浦代浦は一面湖のようになった。」(南海トラフと大分)