被害【文禄5年閏7月慶長豊後地震】大分郡今津留
|災害番号:000280|固有コード:00028023
- 市町村
- 大分市
概要(被害)
沖の浜で津波に飲み込まれた柴山勘兵衛重成とその妻が流れ着いた場所。この地も津波に襲われ人家も見えないという悲惨な状況だった(大分の地震と津波)。
災害概要
(1)大地震海嘯あり、瓜生島遂に海底に陥没す(豊後速見郡史)
(2)大地震、大津波、瓜生島及び別府村海中に陥没し、戸数千余、死者八百余人を出す、高崎山、浜脇村田、野口、鍋山、由布、椿山等崩る。(別府史談)
(3)地震により田畑塩田の流没60余町歩に及び、亦同日瓜生島も陥没せり。(坂の市郷土史)
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
別府湾(日出生断層帯)を震源とする地震で、別府湾沿岸の地域を大きな津波が襲い、多くの被害が出た。またこの津波で、別府湾内にあった「瓜生島」が沈んだという言い伝えが残っているが、島の存在そのものについては証拠が見つかっておらず、府内からおよそ4キロメートル離れた「沖ノ浜」という港町が津波で沈んだことを指していると考えられている。「豊府紀聞」には府内、もしくは瓜生島での死者が708人とあるが807人とする資料(「豊後遺事」)などもあり正しいかどうかはわからない。
【出典:おおいたの地震と津波、日本被害地震総覧】
災害データ
- 死者・行方不明者数
- 708人
- 負傷者数
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- 住家全壊/全焼数
- 戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 戸(棟)
- 住家一部損壊数
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- 床上浸水数
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- 床下浸水数
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- 道路被害 ※事前通行規制は除く
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- 橋梁被害
- か所
- 山・崖崩れ
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- 被害総額
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主な被害
マップを見る「豊後国正保郷帳」によると、速見郡内の1938石あまりの土地が、「大地震二滅地」したという記述がある。
「三浦家文書」によると、地震は7月9日の7ッ半(午後4時過ぎ〜5時ごろ)に揺れだし、大津波が村を襲い、地割れが起きた。そのため120石の村高が32石に減少、海岸に近い近隣の松崎、住吉の両村がなくなり塩浜になったという記述がある。
瓜生島にあった「沖浜道場」という寺院は地震で本尊の絵が流失してしまった。そんな中僧侶の周安の夢に、本尊は海辺にある(「威徳寺由来記」では仏崎)というというので捜してみたら果たしてあった。そこで沖の浜に道場を再建し、本尊を安置し、威徳寺という名前をつけた(豊陽古事談)。境内にある古い五輪塔は、かつて島にあったものと伝えられている。
現長浜神社だが社地が異なる。地震による津波で「長浜明神の神殿が春日山へ流れた」(豊府紀聞)。都司他(2012)によるとこの地の津波高は5mと推定されている。
十四世 至峰玄祝大和尚 慶長改元丙申七月一二日大地震ニテ椿山崩ニヨリ殿堂ト共に殉職遷化一八年住ス
(慶長元年(改元)丙申(ひのえさる)七月一二日、大地震にて椿山が崩壊したことにより興禅院の殿堂と共に亡くなった。至峰玄祝和尚は興禅院に一八年住んだ。)【出典:以心伝心(平岡虎峰、1976)(挟間史談会 梅野敏明氏の報告による)】
杵築藩士の是永六雅が中世から近世の杵築の記録をまとめた「豊城世譜」によると「奈多宮本社・拝殿・楼門や鳥居が残す事なく津波により沈没しました。」という記述がある(大分の地震と津波)。この地の津波高は都司他(2012)によると、7〜8m、また松崎他(2016)によると、4〜5メートルと推定されている。
杵築藩士の是永六雅が中世から近世の杵築の記録をまとめた「豊城世譜」によると
「(神場洲の内側は)天下無双の港でしたが津波によって海底へ沈没してしまいました。」という記述がある(大分の地震と津波)。
この地の津波高は、羽鳥(1985)によると4〜5メートルと推定されている。
「閑居口号」によると「昔より石の華表ありしが、慶長元年7月の津波に打ち倒れ」という記述がある。この地の津波高は、松崎他(2016)によると4メートル程度と推定されている。
「杵築郷土史」によると、「納屋御堂の地数十町海中に陥没せり」という記述がある。
桜八幡宮に収められていた「大般若経」の奥付に「文禄五年丙申七月九日大地震仕、豊後興浜悉ク海二成、人畜ニ二千余死ス、前代未聞条書付申候畢、亦者興ノ浜計ニ一万人死ト云々」との記述がある。当地での津波の被害が記載されていないため、この地の津波被害は大きくなかったと考えられる。
フロイスの報告によると「津波による浸水があった。村全体でただ1人のキリスト教徒だけが助かった」という記述がある(大分の地震と津波)。
「豊後国速見郡御検地帳」によると「先年大地震ニ永荒罷成候」という耕地があった。
フロイスの報告によると、津波による浸水があったと考えられる(大分の地震と津波)。
「豊後国速見郡御検地帳」によると「先年大地震ニ永荒罷成候」という耕地があった。
「豊後国速見郡御検地帳」によると「先年大地震ニ永荒罷成候」という耕地があった。
フロイスの報告によると、津波による浸水があったと考えられる(大分の地震と津波)。
山が崩れて別府湾まで流れ出した(速見郡史)。
瓜生島から46人が避難し、この地に仮小屋を建てた(瓜生島の図附記)。
現早吸日女神社。「佐賀関史」によると、「津波で鳥居が倒壊、社殿が海水に浸かった。」という記述がある。この地の津波高は10.6m(都司他2012)、また、社殿の位置の変遷を検討した松崎他(2015)によると6メートル強と推定している。
市中は津波で浸水し、言葉に出来ないような被害があった(佐賀関史)。
津波で廃滅した。
流失した。
集落が流失、人家の棟まで水が上がった。
集落が流失、人家の棟まで水が上がった。
フロイスの報告によると、「キリスト教徒4000人以上がいる高田には大きな川があり、波が1レグア(5.57キロ)以上の上流域に入り込んで多くの家が倒壊し多数の人が死にました。」という記述がある(大分の地震と津波)。
「府内から一日行程だけ離れた所にあった由布院〔そこにはかつて、我らの同僚司祭某が数年間その住民の改宗ために活動し、漸次聖なる洗礼を授かった人々のために何らかの援助をした〕と呼ばれた或る地方では、戦乱によって領国が荒廃されて以後、幾人かのキリシタンの残存者たちが留まっていたが、魂の救済を得ることでは冷淡になって、このことについて他の善良なキリシタンたちから非難を受けたにもかかわらず生活を改めなかった。同地に迫っている山の一部が、この地震によって。少数の者を除いて彼らのほとんどすべてを圧死させた。以上のことは、これまで我らの司祭たちや、自分の眼ですべてを見た、他の信頼に値する人々の書簡から集めることができたものである。」
【出典:「十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第2巻」(松田毅一(監訳)、1987)(挟間史談会 梅野敏明氏の報告による)】
当地の石碑によると、「慶長元年丙申年七月一日、以往地大地震連日連夜、同七日夜風雨暴烈、椿山鳴動数回、終圻山崩、麓之馬場・八川之両村流亡、村墟唯土石積如山、人畜之逢其災害者不可枚挙」とあり、地震により山崩れが発生し、集落が流され、犠牲者も多かったということがわかる。
地震の際、特に海岸の住民は勢家町が比較的標高が高いのでここに避難する人が多かった(雉城雑誌)。領主の早川長敏は、被災した瓜生島の島民に衣服や米代のお金を支援し、勢家の地に仮小屋を建てて、移り住まわせるなど、被災者の救助につとめた。そのため瓜生島の旧名にちなみ、この地を沖の浜町と呼ぶようになった(雉城雑誌)。また府中の本願坊が倒壊し、許可を得て勢家に移した(豊陽古事談)。
禅寺の法蔵寺の境内にも地震による被災者が集まった(雉城雑誌)。
地震や津波で水際の切り立った場所は崩れ、家屋は倒壊、関から大在に至る間の田畑や塩田の流失や水没は60町歩あまりに及んだ。(佐賀関史)
玄与という人が、地震が起こった年に鹿児島から京都まで旅をして、その道中での出来事や見聞きしたことなどを記録した「玄与日記」によると、「(旅の途中で玄与一行は佐賀関に到着しました。)七月十二日の地震の時に、かみの関という浦里が大波にひかれて、家やかまどもなくなってしまいました。命を失った者も数がわかりません。哀れなことです。」という記述がある(大分の地震と津波)。
「豊府紀聞」や「雉城雑誌」によると、「同慈寺の薬師堂だけがひとつ残った。その他の仏殿は倒壊してしまった。境内にある菅神廟は流失し、行方がわからなくなった。本堂の前に旅船1隻が漂着した。大豆を半分ほど積み込まれていたが人はなかった」とある。
この地を大分中央郵便局の裏あたりと推定した、都司他(2012)では、この地の津波高は5.5mと推定している。
お堂が倒壊した(豊府紀聞)。この寺はもともと瓜生島にあって地震で倒壊し、「沖浜道場」(=威徳寺)の西側に再建され法専寺となった(豊陽古事談)。
沖の浜の鎮守である天神が勢家まで流されたので、境内にこれを再建した。また長浜明神の神殿が春日山に流れてきたので、境内にこれを再建した。なお長浜明神と並んで祀られていた北浜明神の行方はわからなくなった(豊府紀聞)。
現松坂神社。神殿が大破したので、日野氏が御神体を祇園宮に遷座させた。
地震で崩れた(別府史談)。椿山の崩壊により馬場・八川両村(現在の仏山寺から宇奈岐日女神社に至るまでの一帯、盆地の南東部周辺一帯)が壊滅した。犠牲者は不明。
【出典:挟間史談会 梅野敏明氏の報告による】
地震で崩れた(別府史談)。地震による山崩れで大きな岩はすべて落ちてきた(瓜生島久光島之考並地図)。
地震による津波で瓜生島は沈んだと言われている。死を免れた者はわずかで、島の人口の7分(7パーセント)。708人が溺死、またある説によると、死を免れた者は50人あまりで、700人が溺死したという。瓜生島は別府湾に浮かぶ、東西の長さ約1里あまり、南北20町、周囲3里あまりの島で、数百戸の人家と3、4の神社仏閣あった。古老によると、島の西の方に祭る蛭子神の顔が赤くなる時は、島が沈むという伝説があった。地震の日、ある乱暴な少年が、その蛭子神の顔に赤い色を塗って、いたずらをして人々を困らせようと企てた。島民はこれを不思議に思い、水害を避けようとあちこちに逃げ惑った。それが理由で溺死した人が他より多かったのだろうと言う(雉城雑誌)。
フロイスの報告によると、津波による浸水があったと考えられる(大分の地震と津波)。また北二王で山が崩れて民家埋没した。
地震による津波でほとんど浸水した。また、「豊後国速見郡御検地帳」によると「先年大地震ニ永荒罷成候」という耕地があった。
地震で山崩れが発生し大きな石が落ちて、石どうしが互いに擦れて火が出た(豊府紀聞)。
地震により拝殿やさまざまな末社がことごとく倒壊した(由原宮年代略記)。
地震で崩れた(別府史談)。
地震で崩れた(別府史談)。
地震で崩れた(別府史談)。
沖ノ浜で地震当時船宿を営んでいたプラスの証言に基づき、当時長崎にいたルイス・フロイスが作成した報告に津波の様子が詳しく記されている。
「夜間に、その村(pueblo)に風が全くないのに、突然轟音を轟かせ、うなりを上げて二、三度波が押し寄せました。津波が激しく波立ったので、村より高く7ブラサ(1ブラサ=ほぼ1尋、ポルトガルでは1.8メートル)以上も持ち上がりました。」「大波(津波mar)は激しい勢いで半レグア(2.8キロ)まで[陸地に]入り込み、何回も陸地の奥まで達しました。津波が押し寄せたとき、沖ノ浜の村には何一つ残りませんでした。…あの地獄の壺(桶tarro)はすべてを飲み込んで、男も女も子供も老人も、雄牛や雌牛、家々や財産も一緒に持って行ってしまいました。一切が深い海に変わってしまいましたが、あたかもそこには村が何もなかったかのようです。」「沖ノ浜に碇泊していた秀吉の貢米を積んだ多数雨の船と、商人たちの船がことごとく破壊され、あるいは沈みました。」(大分の地震と津波)この文書から比定した沖の浜での津波高は、平井(2013)では4〜5メートル、都司他(2012)は5.1mと推定している。また津波に巻き込まれ生還した人物の記録も残っている。「岡藩の船奉行であった柴山勘兵衛重成とその妻、養父の柴山両賀は沖ノ浜に住んでいました。慶長元年の7月、突然大地震が起き、大津波が押し寄せ、屋敷は海中へ沈んでしまいました。勘兵衛は屋根の上に出るために刀で屋根を切り破って上に出ました。そこへ大きな船板が流れてきたので乗り移りましたが、引き潮で沖に流される危険な目にあいました。しかし、波がおさまって船に助けられて今津留(大分)に着くことができました。ところが、今津留も津波に襲われていて、人の家も見えないという悲惨な状況でした。この府内を襲った津波と被害については、「柴山勘兵衛記」に記録されています」(大分の地震と津波)。
慶長元年7月12日末上刻、あるいは申の刻(午後1時頃もしくは4時)に大きな地震が起きて地割れや山崩れが発生した。しかし、すぐに止んだので人々は安堵していたが、同じ日の酉上刻頃(午後5時頃)に海が大きく鳴動して、津波の前兆だと誰かがいうとすぐに広まり、人々は再び驚き、取るものも取りあえず逃げ惑い、山の方へ避難した。そのころ村の水はたちまち干上がって、山のようにせり出した津波が襲いかかり、商家や周辺の民家はほとんど流された(雉城雑誌)。死者は沖の浜(瓜生島)などとあわせて708人にのぼった(豊府紀聞)。
フロイスの報告によると、「府内の市の戸数5000軒のうち、200軒が倒壊を免れました。避難していた下層民等が戻って来て5000人の住民が住んでいます。」「府内の2寺院が倒壊、宣教師がミサに使ったバスティアンの小さな家は倒壊した異教徒達の家の真ん中にあって残存します。」という記述がある(大分の地震と津波)。