被害【安政1年11月安政南海地震】海部郡蒲江浦
|災害番号:001990|固有コード:00199014
- 市町村
- 佐伯市
概要(被害)
「御用日記」によると「五日夕申ノ刻(4時頃)に大地震があり程なく津波、平常より六、七尺余(約1.8~2メートル)満ち上がり大庄屋の家を始め、土地が低い場所の家の半分程は床より五、六寸(15~18センチ)潮が付きました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
災害概要
(1)安政元年甲寅年11月千日酉の上刻(午後5時30分)より大地震がありて、酉の下刻(午後6時30分)より大海嘯に襲われたのであった。此の地震は11日間に及び、15日の巳の刻(午前10時)に止んだとのことであるが漁船の転覆家屋の倒潰流失夥しかったのである。(坂の市郷土史)
(2)安政元年11月五日、地大に震う、前後より屢々小動し、爾後震動止まず、7日また大いに震う。人民皆掘立柱の茅屋を仮立てし避けて之に居る。(山香郷土史)
(3)安政元年11月4日、5日、6日、大地震、15日まで餘震あり、上徳丸村本塘筋33間破損(仲摩嘉左衛門伝)
(4)人家倒屋数100戸、定米413石支給(豊後鶴崎町史)
地震や津波により、漁船の転覆や家屋の倒壊が多かった。本震の前後に余震が続いていた。人々は掘っ立て柱のあばらやを建てて避難した。
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
3回の大きな地震が連続して発生した。すなわち、11月4日、遠州灘灘沖が震源で関東から近畿まで被害をもたらした「安政東海地震」、11月5日、前の地震の32時間後に発生した「安政南海地震」。いずれも南海トラフを震源とする巨大地震だった。さらに、11月7日には豊予海峡を震源とする地震も発生した。特に5日の地震では、宝永4年の地震と同様に、県南を中心に大きな揺れと津波が襲った。7日の地震は大きな津波は起きなかったものの推定震度5から6の激しい揺れで県内各地で被害が発生した。
災害データ
- 地震発生時間
- 酉の上刻
- マグニチュード
- 8.4M
- 震源の深さ
- -
- 最大震度
- -
- 最大震度観測地
- -
- 津波有無
- あり
- 最大津波の観測地(県内)
- -
- 最大津波の高さ(県内)
- -
- 死者・行方不明者数
- 10人
- 負傷者数
- -
- 住家全壊/全焼数
- 836戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 戸(棟)
- 住家一部損壊数
- 100戸(棟)
- 床上浸水数
- -
- 床下浸水数
- -
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- -
- 橋梁被害
- か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- -
主な被害
マップを見る岡藩の記録によると、
4日「「辰ノ中刻」に江戸で大地震があり、御殿などが破損した。」5日「「申ノ下刻」に大地震。お過剰では本丸で地割れが生じた。「鐘丸様」・「於芳様」は庭へ避難した。」7日「「辰ノ下刻」の再び大地震が起きた。本丸の番所などが倒れ、石垣も数か所で崩れた。「御西郭」では地割れが生じた。領内も被があり、「未曽有ノ大地震」である。」という記録がある(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)。
「惣町大帳」によると「全壊した家30軒余、こわれた家100軒ほど。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「惣町大帳」によると「地震による火事で、全焼。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「恕齋日録」によると、5日の地震による被害は軽かった。7日は「御茶尾の柱が狂い梁等が損じ」た(おおいたの地震と津波)。
「恕齋日録」によると、5日では「家から逃げ出す程も無」いほどだった。7日の地震は軽かった(おおいたの地震と津波)。
「杵築町役所日記」によると、
4日「小さな地震がありました。」5日「七ツ半大地震。家が倒壊あるいは破損し、町中混乱しました。六軒町(杵築城の南)辺りに「高張」を立て夜回りにあたりました。」7日「四ツ時分、大地震にて六軒町・魚町他大破しました。船に乗り込んだり、大手に逃れたりして、有り合わせの竹木で仮小屋を建てました。御殿も大破したので、西御殿裏の大竹山に移りました。」
「5日より、井戸水が1・2尺減った井戸、水が枯れた井戸もありました。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
また、「十一月五日と七日に被害があり、地震の揺れによって人家などが多く倒壊しました。特に六軒町など海沿いの川が被害が大きかったようです。津波に関しては、杵築に大きな波は押し寄せていませんが、何度も海面が激しく満ち引きを繰り返し、海沿いの人々は恐怖におののき逃げ惑いました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
「恕齋日録」によると、7日の地震で三佐の奉行が避難した。また他の人たちも避難した(おおいたの地震と津波)。
城下町の記録「惣町大帳」によると、
4日「七ツ半時(8時頃)、軽い地震がありました。」5日「九ッ時(13時頃)軽い地震、七ツ半時(16時頃)に大地震がおこり、30分程ゆれました。紺屋の藍瓶があふれましたが、潰れた家はありませんでした。その夜から何度か揺れました。」7日「五ツ半時(9時頃)にまた強くゆれました。」「※その後、9日まで地震が続きました。まちなかは少し破損しただけで、潰れた家はありませんでした。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「広瀬久兵衛日記」によると、地震によって倒壊した(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、後藤今四郎(碩田)の妻と娘が亡くなった(おおいたの地震と津波)。※思想家。「碩田叢史」の編集で有名。
「広瀬久兵衛日記」によると、地震による被害は少なかった。「恕齋日録」によると、5日では「家から逃げ出す程も無」いほどだった。7日の地震は軽かった(おおいたの地震と津波)。
府内領奥郷(由布市庄内町)の大庄屋、三重野家の記録によると「11月5日七ツ半過(18時頃)と11月7日四ッ時頃(9時頃)の大地震で、24時間体制の取締り、また人々が離散しないように世話をすることが命じられました。また、郷民達は、他の仕事を中断してでも縄をつくるよう命じられました。(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「恕齋日録」によると、5日の地震では「何事も」なかった(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、倒壊した家が多かった(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、倒壊した家が2軒焼失した(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、倒壊した家が5、6軒あった(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、地震によって大きな被害があった(おおいたの地震と津波)。
臼杵藩の「御会所日記」によると津波は大手門の内外に押し寄せた(おおいたの地震と津波)。
臼杵藩の「御会所日記」によると、「門内に住居がある者は家内までお城の中へ避難し、御門の外と海沿いのものは地高き場所にある堂・寓・畑へ登りました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
臼杵藩の「御会所日記」によると、「門内に住居がある者は家内までお城の中へ避難し、御門の外と海沿いのものは地高き場所にある堂・寓・畑へ登りました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、倒壊した家が多かった(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、倒壊した家が多かった(おおいたの地震と津波)。
「御用日記」によると「宝永4年に築かれた大土手(堤防)の外は「水一面」になったと記録されていますので、大土手が津波を防ぎ、城下は無事だったよう」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
「御用日記」によると「沖合が、高波で、市中の人々が不安なので、先年の対応をもって、津波の合図として大筒を持たせ、蟹田坂・中村外へ小頭と足軽を差し向けました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
「御用日記」によると「沖合が、高波で、市中の人々が不安なので、先年の対応をもって、津波の合図として大筒を持たせ、蟹田坂・中村外へ小頭と足軽を差し向けました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
臼杵藩の「御会所日記」によると「程なく沖が鳴動して津波が打ち寄せて来て、辻の井戸辺りなどに洪波(津波)打ち上げ、堀の桂石などに打ち返して道を洗い流し」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
色利浦の塩月家が残した「嘉永七年甲寅年十一月色利浦文書」によると、「女性が一人家に服を取りに帰ったため溺死しましたが、他の村人たちは宝永4年の経験を活かして養福寺へ避難し」たという記録がある(おおいたの地震と津波)。
色利浦の塩月家が残した「嘉永七年甲寅年十一月色利浦文書」によると、地震による津波の被害があった(おおいたの地震と津波)。
色利浦の塩月家が残した「嘉永七年甲寅年十一月色利浦文書」によると、地震による津波の被害があった(おおいたの地震と津波)。
佐伯藩の記録では、
4日「軽い地震があり、時ならぬ潮の満ち引きがありました。」
5日「「大地震」 宝永4年(1707)の地震のことがあったので、佐伯城大手門を開いて、城下の者も避難するようにしました。やがて、「高汐」が城下に流れこんできました。」
6日「城内の破損か所の記録には、「いつの地震で壊れたか不明だが、今回まとめて提出」と記されていました」
7日「5日の地震より、一層激しい地震。被害がこの地震で大きくなりました。」
という記録がある。(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「恕齋日録」によると7日は、「平常より一丈八尺余り高い高潮」が襲った。
佐伯藩の村や洲、川のことを書きとめた「郡方川方御用日記」によると、「地震が発生した後、沖合が高波になり、まちなかでは津波が来ると騒ぎになりました。城下町の人々は城山や山ぎわにある養賢寺・家臣の屋敷へと避難しました。最初の津波は川をさかのぼり、諸木方(諸木役所、現佐伯セントラルホテル辺り、ホテルの前の道は川でした)へと到達し、川沿いの道へとあふれだしました。その高さは約75センチと、勢いがあれば人が立っていられない程でした。」「また宝永4年の大地震を教訓にして、城を開放して人々の避難場所としました。」また、「御用日記」によると、「万一大地震と津波があるならば、宝永四年亥年の対応をもって、大手と搦手の門を開き、家中ならびに町人の者達が逃げてくるならば城内へも入れなさい。」「申ノ下刻(4時過ぎ)、にわかに津波が川内に入り込み枡形・大止手の外は水一面になり、市中は大騒ぎになりました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
佐伯藩の村や洲、川のことを書きとめた「郡方川方御用日記」によると、「藩は津波の対策として、松ヶ鼻に大筒(大砲)を持たせた見張り番を置き、津波が来たら玉を込めずに空砲で知らせるように命令しました。」という記録がある(おおいたの地震と津波)。
府内藩の記録などによると、
4日「五ツ半頃(8時頃)地震があり、八ッ時前(13時頃)に津波が押し寄せました。」
5日「七ツ時分(16時)に大地震が起こり、潮の干満がありました。「殿様」と「姫様」は中嶋の桜の馬場に逃げました。城中・御家中は大破したので、廊下橋前の仮屋に避難しました。」
7日「四ツ時分(9時)再び大地震が起こりました。御城・御殿向はほとんど破損しました。」
「※亡くなった人は6人、怪我人は数知れずといいます。」(地球の歴史と人間の記録 おおいたと「南海地震」)
「広瀬久兵衛日記」によると、倒壊した家が200軒くらいあった。6人が即死、けが人多数。相撲取りが4人即死した(おおいたの地震と津波)。
安政元年の11月4日、5日、6日に大地震があり、15日まで余震が続いた。そのため、村の堤防が33間(60メートル)破損した。
住家の全壊500などの被害があった。
色利浦の塩月家が残した「嘉永七年甲寅年十一月色利浦文書」によると、「満潮時の海面より約2.7mの高さの津波が押し寄せました。津波は数度押し寄たようです。最初の津波は、元屋敷水神前までと東風網代の太七方前まで到達したと記録されています。」「元屋敷にあった大庄屋の屋敷は宝永4年の津波で流されたので、高台へ移していました。そのためこの地震では大庄屋の屋敷は床下浸水で済」んだという記録がある。また、村の人間は残らず山へ向かい小屋をかけた。東風網代は廣岡、中江は尾はな、薬師庵の上へ避難したという記録も残っている(おおいたの地震と津波)。
「広瀬久兵衛日記」によると、地震で大きな被害が出ている。「恕齋日録」によると、5日に3人が圧死した。また、「熊本藩御茶屋の玄関や太鼓櫓等が壊れました。報告では圧死二人、怪我人は沢山」いた。7日は「鶴崎からの報告では、朝五ツ半頃二度揺れたが格別強くはなく、五ツ半過ぎ頃に大地震」(おおいたの地震と津波)。住宅の倒壊は100戸、定米(小作料として収められた米)413石が支給された(豊後鶴崎町史)。