被害【昭和36年10月大雨】杵築市藤川 寺田橋
|災害番号:006790|固有コード:00679019
- 市町村
- 杵築市
概要(被害)
17時頃に橋を渡っている際に濁流に足をさらわれて20代と40代の女性が死亡した。また17時半頃には高校2年生の女子生徒が同様に足をとられ行方不明になったが、27日午後4時ごろ橋から約200メートル下流の田んぼで遺体となって発見された。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
災害概要
今回のように10月下旬において、低気圧の通過により大災害を起こす大雨を見たことは過去にもほとんど例がない。今回の大雨の特徴は、
(1)極めて雨の勢いが強かったこと。今回の1時間雨量の極値は59.4ミリ(26日14時50〜15時50分)で、10月としては飛び離れた値であり、年間を通じても第2位のものであるが、1位の70.6ミリ、2位の56.5ミリは雷による短時間強雨であって、総降水量は100ミリ以下であった。今回の豪雨の強さは記録的なものである。三重観測所の1時間最大降水量は82.0ミリであった。
(2)強雨は朝5時頃から夕刻の18時頃まで続き、継続時間が長かったこと。
(3)雨量が山地よもむしろ人口の密集した平野部に多かったこと、にある。
県下の主な被害
(1)26日14時20分頃大分発亀川行大分交通の電車が仏崎のカーブにさしかかった時豪雨のため高さ15mのコンクリート壁の上の崖が長さ十数メートルの松の木と一緒に100平方メートルにわたって崩れ落ち、前部の一部を残して電車は埋没した。乗客70人中死者31人、重軽傷者36人。
(2)国東半島南部では300ミリ以上の集中豪雨に見舞れ、安岐町では安岐川と荒木川が一度に決壊したため、死者10人、行方不明15人、41戸流失、500戸以上が床上浸水、この出水事故は町はじまって以来の大惨事となった。
【出典:大分県災異誌 第3編(1975)】
【出典:1961/10/26 21:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 995.5hPa
- 最低気圧観測地
- 大分
- 最低気圧観測日時
- 1961/10/26 16:42
- 最大風速の風向
- 北東
- 最大風速
- 11.7メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1961/10/26 8:25
- 累積最大降水量
- 511ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 三重
- 日最大降水量
- 411ミリ
- 日最大降水量観測地
- 三重
- 最大日降水量の観測年月日
- 1961/10/26
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 三重
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- 1961/10/26 14:00
- 死者・行方不明者数
- 74人
- 負傷者数
- 94人
- 住家全壊/全焼数
- 192戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 475戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- 4493戸(棟)
- 床下浸水数
- 13182戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 568か所
- 橋梁被害
- 224か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- 7,724,676 千円
主な被害
マップを見る豪雨と高波のため、一帯の27戸が流出。住民94人が浜脇温泉に避難した。浜脇一帯は打ち上げる波のため電車通り下は胸まで水が浸かり、一部逃げ遅れた人を警察がボートで救出した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月26日夕刊3面】
風と波のため、延命寺裏の防波堤が150メートルにわたり決壊。警察、消防、地元の人約100人が出動し、土のうを積むなど応急工事を行っている。
【出典:大分合同新聞 1961年10月26日夕刊3面】
国東市安岐総合支所の駐車場の一角に建てられた昭和36年10月豪雨の復興記念碑。
昭和三十六年十月二十六日 前日来の小雨は正午頃に至り急速に雨勢を増し五七一粍の驚異的雨量を記録し、堤防は決潰し、道路は寸断され橋という橋は流失し死者行方不明二四名流失住宅四四棟、全壊住宅五一棟、非住家流失三八棟非住家全壊二三棟、床上浸水三一九戸、床下浸水五一八戸、牛馬の流失一一頭、豚鶏二四〇〇余、農業用地施設の崩壊二三二ヶ所、被害総額二一億八千万円の巨額に達し、町民は茫然自失 その惨状は目を蔽わしめるものであった。
間髪を入れぬ自衛隊の出動と、全国各地から寄せられた救援物資により当面の困難は克服されたが復旧事業は難■中の■■であった。■来三年有■■古と■い、遂に本年一月末をもって完成するに至った。県、町営による復旧費の総額は十六億円を突破し■■自体の復旧費を加算するときは恐らく二十数億円に達するものと思はれる。この■■■の完遂は国、県の有効適切な施策と町民の一致協力による復興意欲と■■ならびに町職員の不撓不屈、不眠不休の協力の賜である。茲に復興を記念し、関係各位に感謝の誠を披瀝しふたたびかかる大災害を惹起することのないよう町民と共に相戒め永く後昆に伝えんとする。
昭和四十年十月十三日
豪雨のため、40代の女性が死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月28日朝刊5面】
20代の男性がオートバイもろとも三重川に転落し行方不明になったが、27日午後2時ごろ犬飼町田原の大野川の河原で遺体となって発見された。
【出典:大分合同新聞 1961年10月28日朝刊5面】
40代の女性、中学1年生の女子生徒が死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
50代の男性が死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
大分交通国東線守江〜灘手間の鉄橋が流失した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊8面】
二級国道中津〜別府線の橋が流失した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊8面】
安岐川が増水。右岸側が大きく崩壊し通行できなくなった。
【出典:大分合同新聞 1961年10月28日朝刊1面】
近くの浜田川にゴミを捨てに行った40代の男性が足を滑らせて川に落ち、激流に流されたと家族から捜索願が出された。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
学校から家に帰る途中の中学1年生の男子生徒が、中津牟礼川の支流の谷川の飛び石を渡ろうとして激流に足を取られ行方不明になった。学校は午前8時50分で授業を打ち切り子どもを家庭に帰していた。谷川はふだんは水がないが、前日夜からの豪雨で1メートルほど増水し飛び石もわからない状態だった。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
裏を流れる祓川が増水したため避難準備をしていたところ、上流で直前に流失した橋桁などが住宅に衝突。家の中にいた50代の女性が家もろとも押し流され行方不明になった。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
日豊本線の下り準急「ゆのか」が両郡橋付近で山側からの土砂崩れに突っ込み1両めの前輪が脱線した。列車はそのまま100メートル走り停車した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊8面】
裏山が崩れ約50平方メートルの土砂が流出。草ぶき平屋建ての住宅が全壊した。このため中学2年の男性生徒が家の下敷きとなり頭の骨を折って死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
裏山が崩れがけ下にあった木造瓦ぶき2階建ての住宅が全壊した。家の中にいた60代の女性が下敷きとなり死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
住宅の裏にある高さ20メートルのがけ上にある畑に地すべりが発生。自宅の裏で洗濯中の20代の女性が土の下敷きとなった。すぐに家族や近所の人たちによって掘り出されたが、全身を打撲し意識不明の重体。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
橋に穴があき、通りかかった小型自動車(オート三輪)が濁流に飲まれ、同乗していた30代の男性2人が行方不明になった。そのうちの1人は29日午後4時40分ごろ、もう1人は30日午前5時20分ごろ赤灯台付近で遺体が発見された。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
早馬出溜池の堤防が幅15メートル、高さ10メートルにわたり決壊。近くにある2戸が全壊した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
立小野川が氾濫、国鉄豊肥本線の竹中〜中判田間で幅約40メートル、高さ約10メートルにわたり線路下が流失し、レールが完全に宙に浮く状態になった。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊3面】
国道10号線の橋が橋台から流された。復旧までには2〜3ヶ月かかる見込み。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊3面】
豪雨のため、裏山が崩れ木造草ぶきの平屋建て1棟を押しつぶした。家にいた30代の女性と小学5年生の女の子が下敷きとなり死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
裏山が崩れ300立方メートルの土砂が住宅を押しつぶし、70代の女性がショックで死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日朝刊7面】
裏山が崩れ住宅を押しつぶした。この家に住む50代の女性が死亡、30代の女性と4歳の女の子が重傷を負った。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
衣料品店を営む木造2階建ての住宅が倒壊、60代、20代の女性と3歳の女の子が下敷きとなり死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
裏山が崩れ70代の女性が下敷きとなり死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
川沿いの家では数分の間に2階まで水かさが増え、流出する家もあった。地区では3人(20代の女性、3歳の女の子、60代の女性)が死亡した。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
20代の男性が重傷を負った。また5人(50代の男性、40代の女性、中学1年生の女子生徒、20代の男性、20代の女性)が行方不明になった。
【出典:大分合同新聞 1961年10月27日夕刊1面】
6人(60代の男性、2歳の男の子、50代の女性、70代の女性、小学5年生の女子児童、6歳の女の子)が死亡した。また5人(20代の女性2人、10代の女性、8ヶ月の女の子、30代の女性)が行方不明になった。
【出典:大分合同新聞 1961年10月28日朝刊5面】
大分発亀川行きの大分交通の電車が仏崎のカーブにさしかかったとき、高さ15メートルのコンクリート壁の上にある崖が100立方メートルにわたって崩れ落ちた。車両の前方の一部を残して電車は埋まったため、乗客70人中、死者31人、重軽傷者36人を出した。
300ミリ以上の集中豪雨のため、安岐川と荒木川が一度に決壊。死者10人、行方不明者15人、41戸が流出、500戸以上が床上浸水した。