大分県災害データアーカイブ|大分大学減災・復興デザイン教育研究センター(CERD) NHK大分放送局 × 大分大学減災
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被害【明治22年7月大雨】日田郡小野村

|災害番号:002295|固有コード:00229504

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市町村
日田市

概要(被害)

4日午後6時より、雨が強くなり、5日午前4時頃になって普段より1丈8尺(約5.4メートル)にまで増水したが、明治20年の洪水に比べれば2尺(約60センチメートル)ほど低かったので、日田郡の他の町村に比べれば被害は少なかった。

災害概要


そもそも先月(6月)16日以来、数日来雨が久しく降り続き、ときに止むこともあったが快晴になるということはなかったのだが、4日午後6時頃から激しい雨と雷が起こり野山が唸り砕けようかというほどだった。5日の午前1時になると雨の勢いは猛烈になり、崖が崩れ、水が増え、たちまち堤防が決壊した。濁流は激しく上下し、人家を押し流し、また橋を壊し、さらには肥沃な土地を流したり浸水させたりした。人や家畜の死亡や負傷、道路や堤防の損壊、田畑が荒れ地になったところなどとても多く、特に川沿いの肥沃な土地はおおむね荒地になり、再び耕作することもできず、身分の低いものは生業をやめて、茫然自失としている。

大分県下去る5日大雨諸川洪水堤防橋梁家屋田畑の被害、人畜の死傷目下取調中と一昨6日附を以て同県より電報ありたり。

大分県去る5日の水害は日田、玖珠、下毛3郡最も甚しく三隈川、山国川、玖珠川等水量高きは2丈余に及び市街床上4尺に上るものあり、流失家屋170余戸、死傷人員40余人、山崩、道路、堤防、田畑、溜池被害多し、文政年度以来の洪水なりと云う、他郡にも多少の被害あり詳細は目下取調中なりと、孰も一昨10日当局の問い合わせに対し両県より電報あり。

大分県に於いては去月28日より風雨あり、去る4日午後2時に至り、俄に雷鳴り雨甚だしく午後5時過ぎより稍々半晴と為りしも夜に入り再び雷雨と為り同5日午前1時過ぎより同10時までの間は雨劇しく諸川俄に漲溢し、殊に筑後川の上流う日田玖珠郡の2郡は稀なる洪水にて出水の量は2丈余に及び文政年度以来の大洪水にして下毛郡山国川之に次ぎ、家屋道路橋梁堤防用水路等流失破壊、田畑砂入押掘等其の被害実に夥しく詳細は目下調査中なり。今其の概略を掲ぐれば、玖珠郡田畑634町3段3畝余歩、建家流失65棟、同圧倒20棟、同破壊115棟、溺死3人、圧死10人、負傷13人、橋梁流失10箇所、堤防決壊3027間、道路破壊1344間。日田郡田畑宅地604町余歩、建家流失236戸、同85棟、同半流出74戸、同29棟、同破壊237棟、溺死18人、牛同3頭、山崩169箇所、潰家15棟、圧死5人、負傷7人、道路破壊55箇所、600間、堤防破壊105箇所、5844間、橋梁破壊10箇所、同流失3箇所。下毛郡田畑183町1段余歩、家屋流失28戸、同全壊29戸、同半壊33戸、同破損30戸、納屋その他流失28棟、同破損28棟、同半壊14棟、溺死2人、道路破壊27箇所、同1998間、堤防同7箇所、190間、橋梁流失22箇所。大分郡家屋流失11戸、同半壊12戸、同破損1戸、道路破壊30箇所、525間、堤防破壊23箇所、1213間、橋梁同7箇所。速見郡家屋流失3戸、半流失4戸、溺死1人。東国東郡豊崎村において同日溜池破壊したま3人溺死す。直入郡上竹田村においては水車屋破壊のため4人溺死せり。(大分県)

【出典:日田水害誌(池田範六,1950)、官報1806号(1889年7月8日)、官報1810号(1889年7月12日)、官報1820号(1889年7月24日)】

山口・福岡・佐賀・大分 りん雨
6月18日佐賀で数日来の豪雨のため出水、特に18日夜は最もはげしい。筑後川17尺増水。6月30日遠賀川増水、平常の2、3倍となる。7月4、5日の強雨で福岡・佐賀・大分県各地で出水。筑後川など未曽有のこう水。7月13日の大雨で佐賀県各河川はんらん。7月19日佐賀県豪雨、こう水、山くずれ。7月22~24日福岡・熊本県下豪雨。福岡県嘉穂郡熊ケ畑で22日大小200の崩壊を生じ大こう水(熊ヶ畑くずれ)。24日筑後川こう水、瀬下2丈3尺。熊本県下は23、24日に各河川堤防決壊。山口県の水害もこの時か。

【出典:西日本災異誌(日下部正雄,気象庁研究時報11(5),1959)】

災害データ

最低気圧
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最低気圧観測地
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最低気圧観測日時
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最大風速の風向
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最大風速
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最大風速の観測地
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最大風速の観測日時
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累積最大降水量
195.9ミリ
累積最大降水量観測地
大分
日最大降水量
-
日最大降水量観測地
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最大日降水量の観測年月日
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最大1時間降水量
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最大1時間降水量の観測地
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最大1時間降水量の観測年月日時間
-
死者・行方不明者数
22人
負傷者数
-
住家全壊/全焼数
844戸(棟)
住家半壊/半焼数
101戸(棟)
住家一部損壊数
103戸(棟)
床上浸水数
-
床下浸水数
-
道路被害 ※事前通行規制は除く
429か所
橋梁被害
137か所
山・崖崩れ
1635か所
被害総額
654 千円

主な被害

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4日午後7時頃より雷をともなった雨が激しくなり、大肥川は5日午前5時30分に水かさが最大となり、通常よりも3丈(約9メートル)も高くなった。三隈川は5日の午前10時ごろが最も水位が高く、通常よりも約5丈(約15メートル)以上にもなり、この2つの川のために受けた影響は少なくなかった。

溜池が破損し3人が溺死した。

【出典:官報1820号(1889年7月24日)】

水車小屋が破損し4人が溺死した。

【出典:官報1820号(1889年7月24日)】

4日午後11時より激しい雨が間断なく続き、大山川と玖珠川が増水、5日午前10時に三隈川が氾濫、通常より2丈(約6メートル)あまりも増水し、特に玖珠川の水量が多く、田畑、堤防、井堰などの被害がもっとも大きく、字小渕では住宅十数軒が流失し、石だらけになりかつての面影はまったく留めなかった。

4日午後11時より暴風雨が止むことなく続き、大山川、玖珠川、高瀬川が増水。5日午前10時には水位は2丈6尺(約7.8メートル)あまり増え、川沿いの家屋や田畑の被害はたいへん多く、水に流され死亡した人もあった。

4日午後11ごろから暴風雨が止むことなく続き、大山川、玖珠川が増水し、翌5日の午前10時頃には2丈6尺(約7.8メートル)までになり、被害は少なくなかった。大字隈では地上の4尺(約1.2メートル)に及び、住宅で浸水しない家はなかったといえども、大字庄手大釣村下ノ堤防が決壊したために水量は数尺減って、わずかに2、3戸及び川岸の地域のほかは大きな被害はなかった。大字竹田の竹田川原は一面浸水し、耕地だけでなく家屋や寺院などことごとく流失して、無人島のようになった。小字川原町裏川原は隈より1〜2尺(30〜60)センチ水かさが高く、特に水の勢いがとても激しく家屋の流失や損壊が多く、このとき木に登って難を避けたのが60人あまりいた。僧侶1人、俗人1人が水に流され死亡した。大字庄手は大半が三隈川の下流に位置するために、堤防がない場所はなかったが、水かさが高くなりその勢いが激しくなったため、その上流の大釣、村下の堤防が決壊するやたちまち家屋を押し流し、田を荒らして、ひどいところでは川や川原のようになって損害はもっとも大きかった。

4日午後11時より激しい雨が間断なく降り続き、5日午前10時ごろ、三隈川の水量が高くなり(水量は隈町に同じ)、串川が増水したために大字石井の数カ所の堤防が決壊し、たちまち数十町歩の田が川原になり、砂漠のような様子になった。その下流で花月川、二串川が合流し、大字川下に至り川の幅員は狭くなるため、水量はほぼ倍(5丈2尺=約15.6メートル)になり、26戸のうち18戸を流失。道路や田の損壊、川岸の上の木が倒れ、地面の石を飛ばすなどその惨状は表現できないほどだった。

渓流があふれたため、道路の損壊や、橋梁の流失があったが、ほかの町村に比べれば被害は軽かった。

4日午後10時より激しい雨が降り、終夜止まず、翌5日午前8時になって雨の勢いが一層激しくなって、山崩れが発生。数戸が巻き込まれた。谷川があふれ大字柚木との交通が杜絶し、被害の状況を知る方法がない。

4日午後11時ごろから雨が激しくなり、翌5日午前7時まで降り続き、午前8時に渓流があふれたため低地は田畑一面が水に浸かった。人間や家畜に死傷者が出て、被害も少なくなかった。特に大字出口の被害が大きかった。

大山川は明治18年の洪水に比べれば水位はやや低かったが、午前7時ごろ赤石川があふれたため、水の勢いが最も激しく、字中川原の村役場に隣接する住宅などはほとんど大破し、かつ橋梁などはおおむね流失した。

4日午前2時から雨が激しくなり、6時には7尺(約2.1メートル)の水位に達し、翌5日の午前4時30分ごろから洪水となり、午前7時には水かさが1丈5尺あまり(約4.5メートル)増え、水の勢いはもっとも激しく家屋や田畑の被害はたいへんに多かった。水死や圧死があり、特に大字合田の上ノ釣、下ノ釣、古園がもっとも被害が大きかった。村役場では戸籍名寄帳のほかは書類などすべて流されてしまった。

4日午後12時ごろより暴風雨が降り続き、谷川があふれ、加えて玖珠川が大幅に増水し、高い場所では斜面が崩壊しただけにとどまったが、川沿いの低地では田畑の被害や住宅の流失が少なくなく、さらに人間や家畜に死傷者が出た。

4日午後10時雨が突然激しくなり、雷も鳴る中、非常に激しい雨が間断なく降り続き、午前3時ごろから花月川が増水し始め、午前5時ごろには満水になり、午前6時ごろが最もひどく普段より1丈7尺(約5.2メートル)増水。水の勢いは極めて激しく、一新橋の南、七歩通りが崩壊したと同時に、字片原町から南豆田の鉄砲場までの間で、堤防が幅7〜8間(約12〜14メートル)、長さ100間(約180メートル)崩壊した。また大字北豆田川原町浦手堤防の決壊のため、5尺(約1.5メートル)床上浸水。市街地は床上3尺から7尺(90センチ〜2.1メートル)あまり浸水した。上流の西有田村の上手堤防が決壊し、水の勢いが激しく数棟の住宅が流失、あるいは損壊の被害を受けた。また本町嘯流亭の川除けを水が越え、市街地は数百の家屋が浸水し、田畑も被害を受けひどい惨状だった。

4日午後10時ごろから止むことなく暴風雨が続き、午前8時に花月川、二串川が増水し、午前10時に近づき三隈川が溢れたため水位は普段より3丈(約9メートル)も高くなり、堤防が決壊、田畑に被害を及ぼし、河原にように変わったところもあり、また住宅の流失や損壊は100あまりを数えた。加えて大字渡里小字今泉において4か所の山崩れがあり、少なくない被害があった。

4日午後10時ごろから雨が降り、5日午前1時になりますます激しい雨となり、加えて2時ごろから暴風が起き、8時ごろまで間断なく続いた。山野が崩壊したため、山田川やそのほか小河川が増水し、住宅や田畑に被害があったが、他の村々に比べれば程度はやや軽かった。

4日午後11時ごろから雷が続き、翌5日午前2時になり、お盆をひっくり返したような激しい雨が4時間降り続き、たいへんな洪水になった。鶴河内川、鞁川の合流地点が午前6時に満水となり、普段より1丈8尺(約5.4メートル)水位が上昇。明治20年の水量に比べればおよそ2尺(60センチメートル)低かったが、田畑、堤防、道路、橋梁などの被害はかえって前年よりもひどかった。

豪雨による三隈川の氾濫のため、60人近く(50数人という記述もある)がこの木に登って助かった。

日田市若宮町 人助けの椋の木

4日午後10時ごろより雨が止むことなく、5日午前1時には雨の勢いは増々猛烈になり、午前9時まで降り続いた。午前2時頃から有田川、及びそのほかの小河川は普段より1丈6尺(約4.8メートル)増水。川の氾濫による被害は田畑だけでなく、住宅の浸水にまで及び、田畑や堤防の被害は少なくなかった。特に大字羽田小字月出山は田畑の被害が全体の7%にもなった。

午前2時頃から暴風雨のため川が氾濫し、求来里川、有田川、馬尻川の三本は、村の中央でひとつになるため午前7時頃には普段より2丈(約6メートル)も増水。田畑の浸水はどの程度かは詳らかではない。特に小字上手、小寒水、石松で被害が大きかった。

4日午後8時ごろより雨と風がだんだんと激しくなり、小河内川、一ノ瀬川、小野川の三本が午前8時頃に満水になり、普段より2丈(約6メートル)増水して、人家、田畑、道路、橋梁、堤防など全村にわたり被害を受けないところはなかった。中でも小字藤山は特に被害が大きく、数名が水に流され死亡した。熊取や羽野がこれに次ぐ被害を受けた。羽野では山崩れが発生、人家が巻き込まれ数名の圧死者を出した。

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