被害【昭和29年9月台風第12号(ジューン台風)】大野郡長谷川村尾平鉱山 尾平鉱山発電所
|災害番号:005690|固有コード:00569009
- 市町村
- 豊後大野市
概要(被害)
がけ崩れが発生し、修理作業中の大工5人が生き埋めになり、増水した奥岳川に流されたとして地元消防団が捜索を行ったところ、14日午後1時頃、合川村宇田枝で40歳くらいの男性が、午後2時半頃には三重町川辺で20歳くらいの男性が遺体で発見された。また午後5時頃には合川村内で一人の遺体が発見された。
【出典:大分合同新聞 1954年9月15日朝刊3面】
災害概要
台風12号は九州のはるか南方にあったころは大型台風であったが、本邦に接近するにつれて中心気圧はしだいに浅くなり950ミリバール程度となつた。13日正午ごろ、屋久島西方を通過し、15時ごろ鹿児島県枕崎市の東方に上陸して九州を北ないし北北東に進み、日田の西方を21時すぎ通過し、14日0時ごろ、下関付近を通つて日本海へ進んだ。
県下は台風の東側にあたり、しかも13日の昼前から同夜半にわたりおよそ12時間、暴風雨となり、かなりの被害を与えた。
さらに、県内の水稲作付面積の7〜8割を占める晩生種(大分三井、農林18号)がちようど開花期にあたり長時間の強風と乾風のため、水田の大半が見渡す限り白穂となった。
なお、この台風による最大風速は23.5メートル(東南東)で、昭和20年9月18日の25.0メートル(西北西)についで第2位の記録となった。
大分県の調べによれば、この台風による被害額93億円余の過半数をしめる50億円余が農作物の被害であった。そのなかには台風の通過後、南西の強風で発生したフェーン現象の乾風のために生じた白穂の被害が含まれており、その発生面積は実に32,000町步、減収量は275,000石と推定されている。
【出典:大分県災異誌 第2編(1966)】
【出典:1954/9/13 21:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 964.7hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1954/9/13 21:57
- 最大風速の風向
- 東南東
- 最大風速
- 34.7メートル
- 最大風速の観測地
- 佐賀関
- 最大風速の観測日時
- 1954/9/13 21:00
- 累積最大降水量
- 567ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 長谷川
- 日最大降水量
- 294ミリ
- 日最大降水量観測地
- 長谷川
- 最大日降水量の観測年月日
- 1954/9/13
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- 1954/9/13 16:00
- 死者・行方不明者数
- 20人
- 負傷者数
- 132人
- 住家全壊/全焼数
- 455戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 1548戸(棟)
- 住家一部損壊数
- -
- 床上浸水数
- 7046戸(棟)
- 床下浸水数
- 15446戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 1056か所
- 橋梁被害
- 114か所
- 山・崖崩れ
- 643か所
- 被害総額
- -
主な被害
マップを見る住宅裏手の高さ20メートルの崖が崩れ、崖下のニワトリ小屋で餌やりをしていた男性が巻き込まれ死亡した。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日朝刊3面】
地盤の緩みで住宅の裏山が崩れ落ち、70代の男性と5歳の孫、小学生の姪のあわせて3人が下敷きとなり死亡、60代の妻が重傷を負った。
【出典:大分合同新聞 1954年9月13日夕刊3面】
台風による強風で高圧線が倒れ、小学3年生の男の子が感電し即死した。
【出典:大分合同新聞 1954年9月13日夕刊3面】
大分川の増水で、付近の堤防50メートルが決壊し、濁流が村内に流れ込んだ。付近の住宅8戸が孤立したが、住民は賀来小学校に避難し無事だった。この堤防は昭和28年の水害で決壊、県直営工事として修復を行っていたところだった。
【出典:大分合同新聞 1954年9月13日夕刊3面】
海岸線一帯が高潮のために約150戸が浸水、海岸部の33戸のうち14戸と非住家22戸が全壊した。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日朝刊3面】
一家6人が生き埋めとなり、消防団の救出作業により1人が重傷、5人が遺体で発見された。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日朝刊3面】
がけ崩れが発生。住宅と小屋6世帯、あわせて7棟が巻き込まれ、2人が死亡、7人が重傷を負った。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日夕刊3面】
玖珠川にかかる木橋が流失。被害額は350万円ほどと見込まれている。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日夕刊3面】
約2メートルの高潮が発生。町役場前の道路に打ち上げ、中心部の360戸が床上浸水、340戸が床下浸水し、住宅3戸が倒壊した。町民約2500人は町内の東光寺、学校、高台の住宅に避難した。陸上交通は閉ざされ、一時陸の孤島となった。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日朝刊3面】
増水したため池に、2歳の男の子が転落し死亡した。男の子は家族が家の片付けをしている間にひとりで遊びに出かけたと見られている。
【出典:大分合同新聞 1954年9月13日朝刊3面】
農作物被害は1343ヘクタールにおよび、特に台風の通過後のフェーン現象によってもたらされた白穂(水分の欠乏で実が白くなること)の被害が大きかった。
海岸線一帯が高潮のために約60戸が浸水した。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日朝刊3面】
落石が発生し通りがかったバスが転覆。付近で電線を修理していた男性が反動でバスにはねられ死亡。運転手、車掌、乗客の3人が軽傷を負った。
【出典:大分合同新聞 1954年9月14日夕刊3面】