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被害【天保7年秋天保の大飢饉】日田郡日田

|災害番号:001840|固有コード:00184002

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市町村
日田市

概要(被害)

この方面は飢饉が激しかったと言われている

災害概要

(1)佐賀関徳応寺龍漂の手記に「天保7申年、5月頃より雨降りて6月土用も晴天の日僅かに2~3日、8月頃まで雨降る。故に稲粟など穀類不熟、米1升200文、粟1升170~180文、実に万民の苦しみ言うべからず極月の頃よりは、大根などを飯にまぜて食する者あり、日田、久須、由布院の方面は極々難渋の由、かず根も既にほりつくし樫の実やら、わらのあまはだをきざみて食するあり、たぶの葉をすり米ぬかにまぜて食するあり、麦ぬかを団子にして食し、ひしき様のもの、実に未曽有の凶年(中略)。鶴崎在中、関手永在中は唐芋相当出来たれば、百姓の難渋軽し、しかし鷹島などにかず根ほりに行くこと夥し。非常の凶年につき公儀より御救米渡り、極々困窮の者へは1日1合宛下さる。京都、大阪、瀬戸内の風聞、日々餓死多しと云々、御忌後、予は別府西法寺に会読ありて行く、彼方米220匁、その米の悪しきこと、赤くして丸姿は稀なり、皆くずれ米なり極々難渋なり」。(豊後鶴崎町史)

(2) 天保6年4月下旬より6月下旬まで天下一統長雨洪水のため五穀熟せず、翌7年8月9日より冷気しきりに加わり、諸国一統の飢饉となり、七島凶作、畑物なき故、各戸収穫の米を全部そのまま上納することなれば、藩民越年の準備なく藩庁より越年手当として御救米にてようやく正月を迎う、天保8年もまた前年よりの飢饉にて杵築藩の住民は、大に困窮す。(国東半島史)
(3)けだし、天明の飢饉につぐ大災なり、天保2~3年の頃よりと角気候不順にて秋収穫少なく、同4年には夏のなかば頃より霖雨数十日にわたって暑熱をおぼえず、6月大洪水、8月また暴風にて田畑の作物は勿論人家の倒壊その他被害少なからず。ここにおいてか庶民の飢渇に苦しむ者益々多きを加え、かくて4年の飢饉より中2年をへだてて7年の夏は気候いよいよ順調を失い6~7月に至るも冷気を催し、人々みな冬衣を着せり。6月21~22日には白毛(雪か)を降らし、人々安き心地もしなかったが、果して天下の大飢饉となって五穀みのらず、蔬菜果物の類まで一つとして生色なかりき。されば草根木芽の類より牛馬犬猫鶏の類までも食いつくし、初めは飢えに泣く人の声も聞えたが、後にはその声さえ絶え果てて餓■路に横たわり、いたづらに野犬の貪食に委するの外なき状態であった、中にも老病者など自ら水中に身を投じて死する者もあり、甚しきは愛子の屍さえ食う者あるなど、その惨状想像の外にあり。(天保2~3年の頃よりとにかく気候が不順で秋の収穫少なく、天保4年は、夏のなかば頃から長雨が数十日にわたり暑さがなかった。6月は大洪水、8月は暴風により、田畑の作物はもちろん、住宅の倒壊など被害が少なくなかった。このとき飢えに苦しむ人々が多くなったことに加え、天保7年の夏は気候がいよいよ不順になり、6~7月になっても冷気があり、人々は冬の衣類を着ていた。6月21~22日には白毛(雪?)を降らし、不安を感じていたが、予想通り天下の大飢饉となり、五穀は実らず、野菜や果物など生気を失った色になっていた。なので、草の根っ子や、木の芽などから牛や馬、犬や猫、鶏なども食べ尽くし、初めは飢えに泣く人の声も聞えたものの、その声さえ絶え果てて飢えて路上に横たわり、なすすべなく腹をすかせた野犬にあさられるほかない状態だった。中でも老人や病人など自ら水中に身を投げて自殺するものもいた。ひどいものは自分の子どもの死体さえ食る者があるなど、その状況は想像以上のものだ。)(豊後立石史談)

【出典:大分県災害誌(調査編)】

(1)天保4年から7年にかけての大飢饉。享保、天明と合わせ江戸の三大飢饉といわれる。春から天候不順、夏は冷夏、秋は暴風雨、洪水が発生。全国的な飢饉が始まった。東北地方は特にはなはだしく、餓死者、行き倒れが多く、各地で百姓一揆や打ちこわしが起きた。
(2)筑前・肥前・肥後 暴風雨 全国的暴風雨。肥後では9日から雨が降りだし、10日夜から豪雨、風も加わり、11日暁まで暴風雨。14日にようやくやむ。筑前・肥前も11日は暴風雨、秋は不作

肥前・肥後・豊後 ききん 春から気候不順、夏は陰冷、秋は暴風雨、こう水、寒冷で、全国的ききん始まる。東北地方は特にはなはだしい。

【出典:(2)西日本災異誌】

災害データ

死者・行方不明者数
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負傷者数
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住家全壊/全焼数
戸(棟)
住家半壊/半焼数
戸(棟)
住家一部損壊数
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床上浸水数
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床下浸水数
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道路被害 ※事前通行規制は除く
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橋梁被害
か所
山・崖崩れ
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被害総額
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主な被害

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この方面は飢饉が激しかったと言われている

この方面は飢饉が激しかったと言われている

5月ごろから雨が降って6月も晴天の日はわずかに2、3日で、8月頃まで雨が降った。稲や粟などの小供物は成熟が不順。米1升が200文、粟1升が170から180文で人々の苦しみは言い表せない鶴崎、関手永(佐賀関)にいる人はさつまいもが取れたために農家の苦労は軽かった。しかし高島などにかず根(かずら)を掘りに行く人は多かった。たいへんな凶作で幕府より米の救援があり、特に困窮している人には1日1合支給された。

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