被害【昭和24年6月台風第2号(デラ台風)】大分郡野津原村野津原 野津原中学校
|災害番号:005030|固有コード:00503003
- 市町村
- 大分市
概要(被害)
校舎が倒壊した。
【出典:昭和二十四年版 大分県統計書(大分県,1948)/大分市立野津原中学校ホームページ】
災害概要
大分に於ける暴風雨時の状況
前日来断続していた弱い雨は、20日午後2時50分頃から並雨となり、午後8時30分頃からは土砂降りの強雨となったが、この頃から風も次第に強くなり、午後9時頃には、ついに北東の本格的暴風雨状態となって、その後約4時間続いた。この間に、21日午前0時40分には1時間最大雨量43.8ミリを測った。その後雨はやや弱り、並雨程度となったが、風は増々強く、21日午前0時48分には、瞬間最大風速20.2メートルを測った。なおこの頃から気温は不連続的に急昇し始めた。その後30分位、風はやや弱まり、雨も弱雨となったが、21日午前1時30分頃、風向南東に変わるとともに、風は再度強くなり、午前2時0分には10分間平均最大風速21.4メートルを測った。この頃から下層雲(乱雲)に隙間が出来始め、雲間より星が望見され雨はパラパラ降りとなり、急降を続けた気圧も、午前2時30分に最低735.1ミリ(980ミリバール)を示して、再度、摺鉢状に上昇し始めた。
多分この時刻(午後2時30分前後)に台風眼の端が大分市付近を通過したものと思われるが、その後天気は順調に快復の一途をたどったので、眼の状況は明らかでなかった。午前3時30分頃には、上空わずかに片乱雲を残して一時快晴状態となり、午前4時25分には雨は全く止み、風向は南から西寄りに次第に順転した。その後天気は晴れたり曇ったりの状態であったが暴風(風速10メートル以上)は午前11時頃まで続いた。台風に伴う降雨は、県下全般比較的に少ない方であったが、前日より断続的ではあったが降雨が続いていたこと、台風が接近した当時の雨の降り方が急激な豪雨であったため、県下の河川の水位は急速に上昇し、各河川とも洪水大氾濫の一歩手前えという危険な状態に直面したが、幸いに大洪水にまで至らなかったことは不幸中の幸いであった。しかし、梅雨期間中に今回のような、大暴風雨が襲来することは、極めて稀れであるためか、一般の人は、つい油断しがちであったため、観測所からの再三にわたる、気象警報その他台風情報の発表警告にもかかわらず県下の船舶被害1118隻といういまだかつてない大被害を蒙るに至ったことは、かえすがえすも遺憾であった。(大分測候所調査)
青葉丸沈没
姫島東方10マイル附近。川崎汽船の門司‐高浜‐今治間の定期船、青葉丸(599トン)船長大上一雄氏は今治から43名、高浜から47名、計90名の旅客を乗せて、20日夜9時高浜港を出港、門司に向ったが、同日夜半、おりから瀬戸内海西部に接近したデラ台風にまきこまれて、難航をつづけ、山口縣徳山港に避難を試みたが、遂に暴風と激浪のため、21日午前2時頃、大分縣姫島東方10マイル附近で転覆沈没、乗組員45名、乗客90名、合計135名は一瞬にして暗闇の激浪中にのまれた。
青葉丸遭難者内訳は次の通り、生存者3名、収容死体49名、行方不明者83名、なお未収容者の消息については、引き続き、門司、佐伯からC.P船、高浜、広島から川崎汽船の救助船など、捜査船隊が出動して捜査に当たっている。(22日午後6時現在 大分合同新聞記事)
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
【出典:1949/6/20 9:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 980hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1949/6/21 2:30
- 最大風速の風向
- 南東
- 最大風速
- 21.4メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1949/6/21 2:00
- 累積最大降水量
- 298.1ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 津房
- 日最大降水量
- 147.3ミリ
- 日最大降水量観測地
- 津房
- 最大日降水量の観測年月日
- 1949/6/20
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
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- 死者・行方不明者数
- 10人
- 負傷者数
- 16人
- 住家全壊/全焼数
- 252戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 417戸(棟)
- 住家一部損壊数
- 248戸(棟)
- 床上浸水数
- 589戸(棟)
- 床下浸水数
- 2907戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 458か所
- 橋梁被害
- 50か所
- 山・崖崩れ
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- 被害総額
- 2,560,314 千円