大分県災害データアーカイブ|大分大学減災・復興デザイン教育研究センター(CERD) NHK大分放送局 × 大分大学減災
復興デザイン教育研究センター(CERD)

被害【昭和25年8月台風第17号(津久見豆台風)】南海部郡上野村

|災害番号:005120|固有コード:00512005

災害の詳細を見る →

市町村
佐伯市

概要(被害)

住宅3棟、非住家18棟が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月15日朝刊2面】

災害概要

8月13日午前3時頃、潮岬南方350キロの海上に進出してきた豆台風は、中心示度992ミリバールくらいを示して、毎時35キロ~40キロの速度で西北西に進み、同日午後3時頃には、四国足摺岬南方80キロ、同午後7時には、大分、宮崎の県境付近から九州に上陸、その後、大分県南部県境付近を掠めて、九州を横断し、14日午前3時頃対馬海峡に出て、南鮮に上陸し去ったが、当時大分付近では、13日午後1時8分頃から雨が降り始め、同午後4時25分頃から強風となり、風はその後約40分を経て午後5時前後から急激に強くなり、その後4時間にわたり風雨ともに強く猛烈な暴風雨が続いたが、午後9時頃から風も雨も共に弱くなり、午後9時10分には雨は全く止み、その後次第に晴天に復した。今回の台風は、いわゆる豆台風ともいうべきもので、暴風雨半径は50キロ位の極めて小さいものであったが、中心付近では猛烈な暴風雨を伴い、しかも本県南部上陸当時の進行速度は毎時50キロ~60キロ位のかなり早いものであったため、豆台風の中心に接近した地域(北海部郡、南海部郡)一帯では突如猛烈な暴風雨に襲われ、大きな被害を蒙った。なかでも津久見港における幸丸の遭難事件は記録すべき大惨事となった。(大分測候所調査)

大分県下の総被害(死者33人、行方不明2人、負傷者8人、家屋全潰166戸、同半潰488戸、道路決潰63ヶ所、橋梁流出5件、同破損11件、堤防破損112件、護岸破損21ヶ所、農作物被害1368町歩、船舶被害140隻、漁網破損2統)(大分県)

津久見港内幸丸遭難
暴風雨の猛り狂う13日夕刻、津久見町赤八幡神社の夏祭から同町徳浦と堅浦方面へ帰る客50名を乗せた津久見港運会社の幸丸(木造42トン定員20名)は出港後約1キロメートルの地点の島附近にさしかかった際、突如突風による激浪をかぶり、機関に故障を生じたので、その後逆航して引き返えす途中、午後6時10分頃、遂に津久見浦五十川ドロマイト工場裏の岸壁に激突、船は原型をとどめぬまでに破壊、乗客は全部激浪中に投出され、33人溺死(大分県)

【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】

この豆台風のため大分県津久見港では、渡船の遭難事件が発生し、52名の乗客中33名が溺死するという惨事が起った。またこの豆台風は急に来襲したため周防灘から関門海峡にかけても20メートル以上の風が約3時間も吹き続き、小型船舶にかなりの被害を与え、死傷行方不明18名、沈没16隻、その他被害31隻を出している。
大分県南部でも、倒壊家屋21戸(非住家110戸)、船舶の流失破損59隻、甘藷畑の塩害500町歩などの被害があった。したがってこれらのことから見てもこの豆台数は、局地的にはかなり猛烈なものであったといえよう。

【出典:大分県災害誌(調査編)】

【昭和25年8月台風第17号(津久見豆台風)】

【出典:1950/8/13 21:00の天気図】

災害データ

最低気圧
993.1hPa
最低気圧観測地
大分
最低気圧観測日時
1950/8/13 18:45
最大風速の風向
北東
最大風速
18メートル
最大風速の観測地
大分
最大風速の観測日時
1950/8/13 18:05
累積最大降水量
241.1ミリ
累積最大降水量観測地
長谷川
日最大降水量
200.3ミリ
日最大降水量観測地
長谷川
最大日降水量の観測年月日
1950/8/13
最大1時間降水量
-
最大1時間降水量の観測地
大分
最大1時間降水量の観測年月日時間
-
死者・行方不明者数
35人
負傷者数
10人
住家全壊/全焼数
32戸(棟)
住家半壊/半焼数
318戸(棟)
住家一部損壊数
-
床上浸水数
-
床下浸水数
-
道路被害 ※事前通行規制は除く
63か所
橋梁被害
16か所
山・崖崩れ
-
被害総額
366,374 千円

主な被害

マップを見る

機帆船が転覆し、2人が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1950年8月17日朝刊2面】

漁船の40代の船主が行方不明になった。その後、16日に臼杵市の男性により水死体で発見された。出漁中に突風に遭い遭難したと見られていて、船から離れまいと自ら胴体を船にくくりつけていた。

【出典:大分合同新聞 1950年8月17日朝刊2面】

校舎が一部大破、瓦が1500枚破損した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月17日朝刊2面】

芹川の橋が流れたため架橋作業を行っていた谷村(現由布市)の20代の男性が作業中に墜落、濁流に流され行方不明になった。その後16日午後8時30分、谷村字篠原の発電所付近から200メートル下流で水死体となり発見された。

【出典:大分合同新聞 1950年8月16日朝刊2面】

集落約200戸のうち、全壊17戸、半壊171戸を出したほか、出漁中の40代の男性が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1950年8月17日朝刊2面】

5棟が全壊、6棟が半壊した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月17日朝刊2面】

7棟が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月17日朝刊2面】

住宅2棟、非住家14棟が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月15日朝刊2面】

出漁中の男性が行方不明になった。

【出典:大分合同新聞 1950年8月15日朝刊2面】

住宅街で家屋の全壊の被害があった。

【出典:夕刊大分 1950年8月15日1面】

津久見港運会社の幸丸(木造42トン・定員20人)が赤八幡宮の夏祭り帰りの客50人を乗せ徳浦・堅浦方面へ向かってたところ、出港後1キロの箆島付近で突風による波をかぶり、機関が故障。津久見港へ引き返す途中に津久見浦の五十川ドロマイト工場裏の岸壁に激突。船は原型をとどめないくらいに壊れ、乗客は全員海に投げ出され33人が溺死した。

中学校校舎1棟(3教室、60坪)が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月15日朝刊2面】

住宅4棟(うち1棟は流出)、非住家22棟が倒壊した。

【出典:大分合同新聞 1950年8月15日朝刊2面】

災害一覧に戻る