被害【慶長11年8月大雨】宇佐市上元重 小倉池改修記念碑
|災害番号:000350|固有コード:00035003
- 市町村
- 宇佐市
概要(被害)
【慶長11年8月大雨】
(表面)
小倉池改修記念碑文
大分県知事平松守彦書
(裏面)
碑文 宇佐最大の小倉池は、慶長十年中津藩主細川忠興会が、領内巡視て稲枯れの惨状をいたく哀れみ、麻生 元重 四日市の三庄屋に命じて、数千の人夫を使い、築堤途中尊い人命お久良の人柱など、生贄の悲劇の歴史を亘り、慶長十二年に竣工した。しかし残念なのは、平安前期の建立と伝えているまぼろし寺が、東南方の池底に永久に、水没したと伝えられている。其の後明治三十四年、夏の堤防決潰による六十八米に及ぶ修復工事又昭和四十二年の立樋改修等の工事を行なったが、老朽化と併せて貯水能力もいちじるしく低下したため、上元重下元重山下の共同建設委員会で発起し、更に県当局や宇佐土地改良区のご協力を得て、昭和四十九年より十ヵ年、総工費一億八阡万円を投入して貯水量六十三万五千立方米、かんがい面積一六五ヘクタール昭和大改修事業を行なった。茲に県営老朽溜池整備事業小池改修工事の完成を記念し碑文とする。 昭和六十年三月吉日 大分県々議会時議長本多睦治撰
【お倉の池の悲話】
領主細川忠興は干害に悩む農民たちの姿を見て、家臣の長岡内膳らを遣わし、同地区の庄屋たちと相談のうえ、巨大なため池を造ることを命じた。莫大な費用と数千人の人を使い、百数十日の苦労の末ようやく完成した。これで干害の心配はないと村人たちは大喜びであった。だが、それも束の間のこと、慶長11年(1606)の夏に十数年ぶりという大雨があったさい、大堤防は根元から崩れてしまい、池の水は田畑にあふれ、稲も作物もすべて押し流されてしまった。ただ呆然としている農民たちを庄屋がどんなときにも崩れないような立派なため池を子孫のために造るべきだと励ました。皆が集まって相談し、この上は人柱を立てて神仏の力を借りるよりないという事になった。だが、誰が人柱に立つか、皆硬く口をつぐんでしまった。この時、元重村の久良という40歳前後の親も子もない一人の女性が庄屋を訪ね、何かと世話になった村人に恩返しがしたいといって人柱に立つ事を願い出た。願いを許された久良は、伊呂波川の流れで身を清め、神に祈り、1ケ月の斉戒沐浴を終え慶長11年(1606)9月10日純白の衣に身を包んだ久良は部落民多くの見守る目前で犠牲となった。
その誠が神に通じたのか、数百メートルの大堤防も日ならずして完成、農民は今日までその恩恵に浴している。このため、池の畔に祠を建立し、池守明神として祭り彼女の名をとりお蔵の池と称したということである。
【宇佐市立横山小学校校歌】
小倉池から約1km離れた横山小学校の校歌の2番の歌詞には小倉池に関する内容が含まれている
小倉の池は水清く
我らが村を水注ぎ
伝説秘めし人柱
学ぶ誇りのああ母校
母校母校我らが母校
【出典:小倉池改修記念碑文,大分県土地改良史(大分県農政部耕地課, 1972),宇佐市立横山小学校校歌】
【出典:大分大学減災・復興デザイン教育研究センター】
災害概要
(1)大水出るなり、水の高さ2間。(豊後鶴崎町史)
(2)慶長11年夏豪雨、小倉池壊潰(宇佐郡史 小倉池伝記)
【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)】
災害データ
- 最低気圧
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- 最低気圧観測地
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- 最低気圧観測日時
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- 最大風速の風向
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- 最大風速
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- 最大風速の観測地
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- 最大風速の観測日時
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- 累積最大降水量
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- 累積最大降水量観測地
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- 日最大降水量
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- 日最大降水量観測地
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- 最大日降水量の観測年月日
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- 最大1時間降水量
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- 最大1時間降水量の観測地
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- 最大1時間降水量の観測年月日時間
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- 死者・行方不明者数
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- 負傷者数
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- 住家全壊/全焼数
- 戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 戸(棟)
- 住家一部損壊数
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- 床上浸水数
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- 床下浸水数
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- 道路被害 ※事前通行規制は除く
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- 橋梁被害
- か所
- 山・崖崩れ
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- 被害総額
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主な被害
マップを見る大雨により、決壊した。
洪水になり、2間(3.6メートル)ほど浸水した。
『お倉の池の悲話』
領主細川忠興は干害に悩む農民たちの姿を見て、家臣の長岡内膳らを遣わし、同地区の庄屋たちと相談のうえ、巨大なため池を造ることを命じた。莫大な費用と数千人の人を使い、百数十日の苦労の末ようやく完成した。これで干害の心配はないと村人たちは大喜びであった。だが、それも束の間のこと、慶長11年(1606)の夏に十数年ぶりという大雨があったさい、大堤防は根元から崩れてしまい、池の水は田畑にあふれ、稲も作物もすべて押し流されてしまった。ただ呆然としている農民たちを庄屋がどんなときにも崩れないような立派なため池を子孫のために造るべきだと励ました。皆が集まって相談し、この上は人柱を立てて神仏の力を借りるよりないという事になった。だが、誰が人柱に立つか、皆硬く口をつぐんでしまった。この時、元重村の久良という40歳前後の親も子もない一人の女性が庄屋を訪ね、何かと世話になった村人に恩返しがしたいといって人柱に立つ事を願い出た。願いを許された久良は、伊呂波川の流れで身を清め、神に祈り、1ケ月の斉戒沐浴を終え慶長11年(1606)9月10日純白の衣に身を包んだ久良は部落民多くの見守る目前で犠牲となった。
その誠が神に通じたのか、数百メートルの大堤防も日ならずして完成、農民は今日までその恩恵に浴している。このため、池の畔に祠を建立し、池守明神として祭り彼女の名をとりお蔵の池と称したということである。【出典:大分県土地改良史(大分県農政部耕地課, 1972)】
『宇佐市立横山小学校校歌』
小倉池から約1km離れた横山小学校の校歌の2番の歌詞には小倉池に関する内容が含まれている
小倉の池は水清く
我らが村を水注ぎ
伝説秘めし人柱
学ぶ誇りのああ母校
母校母校我らが母校