被害【天保8年天保の大飢饉】速見郡立石地方
|災害番号:001850|固有コード:00185001
- 市町村
- 杵築市
概要(被害)
西鶴嘉十という人によると、天保8年の飢饉の時、天満社拝殿の新築工事があった。(私の)父は足軽で御用大工を兼ねていたので、毎日工事に行き、白米1升ずつを受け取って帰るために、人々がこれを見てうらやましいと思わずにはいられなかった。この年、農村では米がほとんどなくなったので、おかゆや雑炊も米では作れなかった。たまたま少量の粉にした米があって、団子汁にするものの粘り気がなく、全部とけて団子の形はなかったという。8月に元重の庄屋、茂右ヱ門方で、年貢の割出しとかで2、3人の役人が集まって計算しているとき、昼飯を炊く米がないため、わざわざ田染村の陽平まで下男を遣わして、ようやく3升の白米をもらってきたとのこと。また船村の金右ヱ門兄弟、3人いていずれも屈強なので、毎日かんね(葛根)を堀って食料としていたが、次第に余裕が生まれ、ついにかます(わらむしろの袋)10俵あまり貯めて、翌年まで持越したので次年の経済状態はとても良くなり、年々食料を翌年に回し、たくさんの蓄えができて、のちに多くの田畑を買入れ、とても裕福になったことで、当時の世相がよくわかると思う(豊後立石史談)。
災害概要
(1)(西鶴嘉十翁談)天保8年飢饉の時、天満社拝殿新築工事あり、父は足軽にて御用大工を兼ねたれば、毎日工事に行き、白米1升づつ受取って帰えるため、人々これをみて羨怨おく能わざりしと。この年在方では米粒ほとんど皆無なれば、かゆでも雑炊でも米食は出来ず、たまたま少量の粉米あれば、団子汁にするが粘着力なく、皆とけて団子の形はなかったという。8月元重の庄屋茂右ヱ門方で、年貢の割出しとかで二、三の役人打集いて勘定しける時昼飯をたく米なきため、わざわざ田染村の陽平まで下男を遣わし、ようやく3升の白米を求め得たとのこと。また船村の金右ヱ門兄弟3人何れも屈強の人なれば、毎日かんねを堀って食料としていたが、次第に余裕を生じ遂には叺10俵余も貯蓄し、翌年までも持越したので次年の経済状態頗る好都合で年々食料追くりとなり、多大の蓄積を得、遂に後年多くの田畑を買入れ頗る富裕になったと以上で当時の世相がよく判ると思う。(豊後立石史談、鳥越元大庄屋綾部氏旧記の一節)
(2)当春麦依も不熱、大飢饉、食事は、かんね、唐いばら、草木の葉、残らず食尽し、春米七銭、四百目江戸は一両に付き一斗七八升、小麦二百八十匁位、大麦百六十匁、稗百二、三十匁、古耒珍らしきことなり云々。(天保八年の記)
(3)前年度よりの飢饉にて、杵築藩の住民は大に困窮す。(国東半島史)
(4)天保7年7月30日の大雨洪水後悪疫発生。その後大飢饉となる病餓死100余名あり。大阪に大塩の乱起る。(別府史談)
【出典:大分県災害誌(調査編)、大分県災害誌 資料篇(1952)】
周防・長門・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・大隅・薩摩 りん雨 春以来多雨で麦はみのらず、夏以降の風水害も加わってききん。天保のききんの極。1月23、24日(2月27、28日)大雨、筑後・肥後こう水。筑後川は宮地1丈3尺。耳納山筋に山くずれ。肥後は3月14、24日(4月18、28日)もこう水。
【出典:西日本災異誌(日下部正雄,気象庁研究時報11(5),1959)】
災害データ
- 死者・行方不明者数
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- 負傷者数
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- 住家全壊/全焼数
- 戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 戸(棟)
- 住家一部損壊数
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- 床上浸水数
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- 床下浸水数
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- 道路被害 ※事前通行規制は除く
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- 橋梁被害
- か所
- 山・崖崩れ
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- 被害総額
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