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被害【亨保17年亨保の大飢饉】宇佐郡

|災害番号:001080|固有コード:00108006

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市町村
宇佐市

概要(被害)

【亨保17年亨保の大飢饉】春から長雨、夏になっても雨がちで、大麦や小麦が腐った。5月末から降り出した雨は閏5月27日まで降り続き、太陽の顔を出した日はわずかに4日で、そのほかは昼夜降り通しだった。このため駅館川が大洪水となる。翌28日雨は止み、日照りとなるや、翌6月28日まで照りつづけ1日として雲影はなく、干ばつとなった。そのため稲虫湧き、稲はすべて虫害を蒙むる。飢えた人たちはつらさに浜に出て、カニをあさりつくし、木の葉木の皮で食えるものは、すべて摘みつくしはぎつくした。雀も鼠も一匹もいなくなった。このため、10月から翌年4月まで窮民救助が行われ、宗門帳で人数を調べて男1人に2合女1人に1合宛を給することとなり、その給米は大阪から運ばれた。しかし病人や子どもは各村でも20人30人飢死する有様で、道路にたおれ、森の中で椀を手にしたままのたれ死んでいるという状態で、役人は、死体の始末に殺到した。 
初夏の豪雨に続いて、日照りや虫害のため一粒の種子も残されなかったので、政府から1反あたり、1斗7升が支給された。そのほか、牛馬の飼料も支給され、さらに農地への税金の免除となり、年貢も容赦された。その春から米1石が銀百匁余に暴騰し、大豆や小豆、粟までも銀80匁という高値であった。西国東筋の諸大名もこれにならい、年貢が全額免除となった。

災害概要

江戸四代飢饉のひとつ。前年の暖冬に次ぐ長雨冷夏をもたらし、虫害が発生。米はまれに見る不作となった。

(1)享保17年(西暦1732)春から長雨、夏になっても雨勝ち、大麦小麦くさる。5月末から降出した雨は閏5月27日まで降続き、太陽の顔を出した日わずかに4日でその他は昼夜降り通しであった。このため駅館川大洪水となる。翌28日雨止み日照りとなるや翌6月28日まで照り続き1日として雲影を見ず、干ばつとなる、ために稲虫湧き、早中晩稲すべて虫害を蒙むる。この飢饉は九州四国に拡がっていた。飢民は死のつらさに浜に出て、かにをあさりつくし木の葉木の皮で食えるものは、すべて摘みつくしはぎつくした。雀も鼠も一匹もいないまでになった。このためその年10月から翌年4月まで窮民救助が行われ、宗門帳で人数を調べて男1人に2合女1人に1合宛を給することとなり、その給米は大阪から移入された。しかし病人子供は各村でも20人30人と飢死する有様で、道路にたおれ森の中で椀を手にしたまま野たれ死んでいるという状態で、役人共は、死体の始末に殺到していた。時に将軍家からのおふれで五穀成就を宇佐八幡宮に御祈祷せよということで、御祈祷料として大判3枚を宇佐に御奉納すべく、井上河内守、小笠原遠江守が11月26日から御祈祷されたが、百姓たちも丹誠こめて祈願した。各村々の富豪や庄家などは毎日かゆを炊いて門前に集る者へ与えた。
 初夏の雨害つづいて旱害虫害のため一粒の種子も残されなかったので、公儀から1反に1斗7升宛拾された。その他牛馬の飼料を給され、さらに田租全免というので御年貢は全部御用捨となった。その春から米1石が銀百匁余に暴騰し、大小豆、粟の如きも銀80匁という高値であった。西国東筋の諸大名もこれにならい御年貢は全く免ぜられたという、誠に惨鼻を極めた凶年であった。(大宇佐郡史論)
(2)この年春、小麦作にカリ病発生し悉く苅捨てた、同6月中旬に至りまた稲作に浮塵子発生し、7月中旬に至って被害甚しく、田面は稲枯れて冬野の如き有様なれば農民食物の欠乏を訴え、冬に入り餓死する者続出し、この時農民食うに穀物なくして草根木葉を食い、わずかに生命をささえたが後にはこれらもつき、翌春になり一層飢饉に頻したので、藩でも幕府に扶持米を仰ぎ、家族数によって穀物を与えたが各藩何れもかような状態で、扶持米も行き渡らず、日を追うて餓死するものその数を知らずという(山香郷土史)。
(3)岡、臼杵、府内、日田でも、春夏の候雨多く虫害により稲熟せず、この年蝗害ひどく大飢饉であった。(国東半島史)。
(4)大雨洪水後稲田に蝗虫発生、秋大飢饉■西国の餓死者57萬人、天領は代官増田太兵衛、前より甘薯を栽培せしめて一人の餓死者もなく、増田を薯大官と崇む(別府史談)。

【出典:大分県災害誌 資料篇(1952)、大分県災害誌(調査編)】

災害データ

死者・行方不明者数
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負傷者数
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住家全壊/全焼数
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住家半壊/半焼数
3戸(棟)
住家一部損壊数
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床上浸水数
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床下浸水数
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道路被害 ※事前通行規制は除く
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橋梁被害
か所
山・崖崩れ
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被害総額
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主な被害

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【亨保17年亨保の大飢饉】春と夏に雨が多く、虫の害によって稲が実らず、イナゴの害もあって大飢饉になった。

【亨保17年亨保の大飢饉】この年春、小麦にカリ病が発生しほとんど刈り捨てなければならなかった。6月中旬には稲にウンカが発生し、7月中旬に至って被害が大きく、田は枯れて冬のような有様となり、農民は食物の欠乏を訴え、冬に入ると餓死する人が続出。穀物がないので草根木葉を食べ、わずかに生命をささえたが後にこれらもつき、翌春になり一層飢饉に頻したので、藩でも幕府に扶持米を要請し、家族数によって穀物を与えた。しかし各藩いずれも同じような状態で、扶持米も行き渡らず、日を追って餓死者の数もわからなくなってしまった。

【亨保17年亨保の大飢饉】大雨による洪水のあとに稲田にイナゴが発生。秋に大飢饉となる。西国の餓死者は57万人におよぶが、天領は代官の増田太兵衛が以前からサツマイモを栽培させているので、ひとりの餓死者もなく、増田を薯大官と尊敬した。

【亨保17年亨保の大飢饉】春と夏に雨が多く、虫の害によって稲が実らず、イナゴの害もあって大飢饉になった。

【亨保17年亨保の大飢饉】春と夏に雨が多く、虫の害によって稲が実らず、イナゴの害もあって大飢饉になった。

【亨保17年亨保の大飢饉】春と夏に雨が多く、虫の害によって稲が実らず、イナゴの害もあって大飢饉になった。

【亨保17年亨保の大飢饉】飢饉を受け将軍家のお触れで、五穀成就を祈祷するため、ご祈祷料として大判3枚を奉納すべく、井上河内守、小笠原遠江守が来た。百姓たちも丹精込めて祈願した。

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