災害【昭和46年8月台風第19号】
発生期間 昭和46年8月4日-昭和46年8月6日 ) |災害番号:007930|固有コード:00793000
- 災害の種別
- 台風 大雨
- 市町村
- 佐伯市 別府市 大分市 竹田市 豊後大野市
概要
硫黄島の南東海上に発生した熱帯低気圧は西北西に進み、7月31日の3時に硫黄島の西方で発達して台風19号が誕生した。台風は蛇行しながら、1時間に10~15キロの速さで北西に進み、大型の強い台風になった。台風が南大東島の東海上に近づいた8月3日の明けがたころから、大分県の南部や東部では雨が断続的に降り始めた。また、奄美大島の北東海上を通過する4日12時ごろから大分市では平均風速が10メートルをこえ、県の中部以南は風雨が強まった。台風はこのころから速度が更に遅くなり足踏み状態を続け、11時から16時にかけて屋久島の南海上でループを描いたりした。その後、向きを北に変えながら、やや速度を速め、4日19時ごろには屋久島を通過、5日4時には薩摩半島の南西端をかすめて北上し、7時30分阿久根市付近を通過した。このころから、大分県内は暴風雨がもっとも激しくなり、9時50分ごろ、台風は島原半島の西有家付近に上陸した。有明海を渡ったのち、11時40分に佐賀県川副町付近に再上陸した。このころが県下にもっとも接近した時で、日田市では10時01分に970.3ミリバール、大分市では11待17分に976.7ミリバールの最低気圧を観測した。また、大分市では9時30分に平均風速の最大値19.2メートル(南東の風)を記録した。台風は再上陸後、中心気圧がやや浅くなったが、依然として大型の強い勢力を保って、13時ごろ、福岡市付近を通り玄海灘へ抜け、日本海の西部をほぼ真北に進路をとった。台風が玄海灘に入ってからもしばらくは吹き返しの強い風雨が続いた。夜に入って風はまったが、6日の朝まで県の西部を中心に断続的に強い雨が降った。
台風の特性:
(1) 大型の強い台風であった。台風は屋久島を通過するころが最盛期で、枕崎市付近を通過するころから中心気圧がやや浅まったものの、依然として大型の強い勢力を保って九州を北上した。(大分の般大瞬問風連は南東の風31.5メートル)
(2) 典型的な夏台風で速度が遅かった。九州南方で2回ほど足踏みしながら進んだ。
(3) 台風が九州西岸を北上し、速度が遅かったので、長時間、暴風雨圏に入り、風雨とも長く続き、県の中南部の山沿い地方では総降水量が300〜500ミリに達した。
(4) 特に、東九州は長時間にわたって、南東気流を受け、地形の影響も加わって、県の南部を中心に最多雨域が現れた。竹田市大字倉木にある下障子無線ロボッ卜雨量計によれば、総降水量は800ミリを記録した。
(5) 台風の後面も広い雨域を伴い、台風が日本海へ入った後も吹き返しによる風雨が長く続いた。
【出典:大分県災異誌 第4編(昭和46年~55年)(1981.12)】
台風19号は、台風の強さを表わす中心の気圧からすれば、大分では昭和40年の15号台風以来のものであった。したがって、県下にかなり多くの被害があった。
雨が多かったため、8月4日午後2時25分ごろ、大野郡朝地町で山崩れが起こり、住家が倒壊して1人の死者が出たほか、5日の朝には竹田市でがけ崩れのため2人が死亡した。また5日の11時ごろ、大野郡犬飼町で突風のため、老人が橋の上から吹き落され濁流に流されて死亡した。
最大瞬間風速が40メートルをこえたところが多く、強風による建物、樹木などの被害が県の中部、南部の沿岸地帯でとくに甚だしかった。
さらに、県の南部では高波のため、漁船や真珠イカダなどにも被害があった。暴風雨が強かった5日は陸海空の交通機関が全面的にストップし、大野郡緒方町の尾平部落は一時孤立状態となった。県下の市内電話は3千回線が不通になった。九電大分支店管内の電灯は9万7千戸が停電し、配電率は66%まで低下した。
しかし、雨量が多かった割に河川の水位は上らず、大分川、玖珠川の上流や堅田川で警戒水位をこえた程度であった。また、高潮を引き起こす台風コースとして心配されたが、台風の最接近時は幸いに千潮時で大事にならず、ただ、佐伯市の海岸で4日の夜、高潮と高波のため市道の一部が決壊したにとどまった。
農作物関係では県の北部地方の水稲、果樹などの被害が多く、農業関係の被害額だけでも44億円をこえ、総額は77億円に及んだ。
【出典:1971/8/5 9:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 970.3hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1976/8/5 10:01
- 最大風速の風向
- 南東
- 最大風速
- 19.2メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1976/8/5 9:30
- 累積最大降水量
- 800ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 下障子
- 日最大降水量
- 413ミリ
- 日最大降水量観測地
- 下障子
- 最大日降水量の観測年月日
- 1976/8/4
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- 1976/8/5 15:20
- 死者・行方不明者数
- 4人
- 負傷者数
- 54人
- 住家全壊/全焼数
- 25戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 188戸(棟)
- 住家一部損壊数
- 2641戸(棟)
- 床上浸水数
- 19戸(棟)
- 床下浸水数
- 215戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 758か所
- 橋梁被害
- 4か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- 7,734,635 千円
主な被害
マップを見る町の中心部に通じる道路が数カ所にわたって壊れ、復旧まで1週間を要したため、生活必需物資補給のため、自衛隊のヘリコプターが出動した。
【出典:消防年報〔昭和46年〕】
木造平屋建て住宅1棟が突風に倒れ全壊した。この家に住んでいる3人は外出しており無事だった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
不動産会社所有の私道の土砂が崩れ落ち、木造平屋建て1棟が巻き込まれ屋根の近く前土砂に埋まった。崩れた土砂は幅5メートル、高さ10メートルにわたった。家族は食事中だったが、食堂に土砂が達しなかったため全員無事だった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月6日朝刊1面】
黒川橋付近のがけが長さ40メートル、高さ30メートルにわたって崩れ落ちた。大きなものだと家1軒分もある岩も入っていたために路盤が崩壊、復旧には長い時間がかかるものと見込まれていた。
【出典:大分合同新聞 1971年8月6日朝刊11面】
市道堂面線沿いの山が高さ15メートル、幅20メートルにわたって崩れ、道路を隔てた木造瓦ぶきの平屋建て住宅を押しつぶした。この家では家族4人がいて全員下敷きとなった。1人は自力ではい出し、近所の人に助けを求め、ほかの3人もまもなく救出された。4人全員がけがを負った。
【出典:大分合同新聞 1971年8月6日朝刊11面】
高波のため、防波堤が約70メートルにわたり決壊した。養殖中のハマチはいけすの網が切れて流失。かなりの被害が出た。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
木造瓦ぶき住宅の2階部分が吹き飛ばされた。住民3人は1階にいたので無事だった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
住宅の窓ガラスが1枚割れ、同じ部屋で寝ていた小学6年生と2年生の男子生徒がひざや頭にけがをした。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
自動車整備工場のブロック塀が約10メートルにわたり倒壊。このため塀に沿って駐車していた従業員6人の軽乗用車が押しつぶされた。仕事中だったので、けが人はいなかった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
道路が約50メートル下の谷に崩れ落ちた。崩壊は長さ約25メートル、幅約3メートルでガードレールは宙吊りになった。山側もがけ崩れの危険があるため、道路は通行禁止となった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日朝刊11面】
高波のため、漁船2隻が沈没した。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
高波のため、防波堤が約30メートルにわたり決壊した。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊7面】
豊肥線の朝地駅の裏の町道用作線沿いの山が高さ10メートル、幅5メートル、厚さ5メートルにわたって崩れ、約50立方メートルの土砂が道路を隔てた住宅を押しつぶした。80代のひとり暮らしの女性が巻き込まれ死亡した。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日朝刊11面】
裏山が高さ20メートル、幅6メートル、約14立方メートルが崩れ落ち、木造平屋建て1棟が巻き込まれた。消防や近所の住民、あわせて150人ほどが救助作業を行った結果、50代の女性と中学2年生の女子生徒の遺体が発見された。
【出典:大分合同新聞 1971年8月5日夕刊1面】
突風のため、老人が橋の上から吹き飛ばされ、大野川に転落。濁流に流された。8月7日午後5時40分頃、大分市鶴崎の大野川河口近くで遺体が発見された。
【出典:消防年報〔昭和46年〕】