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被害【昭和50年4月大分県中部地震】大分郡庄内町阿蘇野井手下 阿蘇野神社

|災害番号:008385|固有コード:00838513

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市町村
由布市

概要(被害)

【昭和50年4月大分県中部地震】石造りの鳥居(高さ3メートル、直径40センチ)の片方(以前に折損した形跡あり)が倒れ、また、石灯ろう、記念碑など 倒れていたが、木造の神社は、天井の部分だけが少し破損した程度であった。

災害概要

1975 (昭和50)年4月21日2時35分ごろ、九州中部から北部にかけて、強い地震が起こり、有感域は、九州の大部分と四国、中国地方の一部に及んだ。震源地は大分県中部で、震源の深さはごく浅い地震と推定された。この地震で、大分地方気象台と阿蘇山測候所では、震度4の中震を観測したが、後日の現地調査による震源地付近の震度は、6程度と推定された。大分県内の5か町(庄内町、湯布院町、九重町、直入町、野津原町)内では、この地震により 建物の倒壊、道路の決壊、山崩れ、墓石の転倒などかなりの被害を生じた。特に、震源地に近い内山地区では、被害が最も大きく、ほとんどの住家が全半壊し、部落に通ずる道路も、数か所に わたって決壊したため、交通が途絶し、一時孤立状態におちいった。また、同じく山下池湖畔の 鉄筋4階建の「九重レークサイドホテル」は、一階のピロティ部分がつぶされて3階になり、内部も大破し、使用不能になった。九州の内陸部で、このような大きな被害をもたらした直下型地震が発生したのは、最近では、1968 (昭和43)年の2月から3月にかけて起こったいわゆる「えびの地震」と去る1月22日から連続して起こった熊本県北東部の地震(阿蘇外輪山北部)があげられる。今回の地震の規模は、M6.4で前2回よりもやや大きく、被害も大きく、被害域も広範囲にわたった。しかし、わずかの負傷者はあったものの、死者のなかったことは幸いであった。本心(M=6.4)発生直後は、余震もかなり多く起こり、震源地付近では地鳴りを伴った震度1〜3の有感地震が連続して起こるなど、地震活動は活発であったが、22日以後は、余震の発生回数も急激に減少し、間欠的に余震が起こる程度で、活動も次第におさまった。

【出典:大分県災異誌 第4編(昭和46年~55年)(1981.12)】

本震により大分県内5か町では、かなりの被害が生じたが、調査期間が短かく、また、被災地域が広範囲にわたったため、全地域の調査はできなかったが、その概要を次に示す。

(1)庄内町内山地区
この地区は、庄内町中部の山間部にある戸数10数戸の小さな部落である。 住民の話では、発震と同時に地鳴りを伴い、下から突き上げられるような衝撃を受け、室内のタンス、棚などが倒れた。また、発震直後、あわてて戸外に飛び出た一部の人は、部落の西〜北西方向の山の頂上付近が明るくなり、白煙のように見え、その明るさは窓ガラスにうつるような程度であったということである。本震のあとも、引き続き地鳴りを伴った余震(震度1〜3程度)が起こっており、地鳴りが大きいと揺れ方が大きく、地鳴りが小さいと揺れ方も小さいということであった。
この地区の被害が最も大きく、ほとんどの家屋が全半壊していた。また、家屋は東に傾いたものが1棟あり、その他は、すべて西に傾いていた。屋内の家具類も大部分が破損し、台上に置いてある電話機の受話機だけが下からの衝撃を受けたため、飛び上がって離れた所に落ちていた。 また、四方がブロックでできている倉庫の屋根の部分だけ北西方向におよそ2mずれ、田の中にある大石(重さ約5トン)が同じく北西方向に20cmほど移動していた。その他、山崩れ、道路の亀裂、路肩が崩れ落ちるなど多く見られた。また、部落の東にある時山(958 m)の山頂付近が崩れ、約10トンの大石が部落の入口の牧道まで転落していた。
3か所にある墓地の墓石は、すべて倒れていたが、整備されていない墓地もあったため、転倒方向は、まちまちであったが、2段目や3段目の墓石は、北西方向にずれたものが多かった。被害の状況からこの地区での震度は、6程度と推定された。

(2)庄内町阿蘇野地区
この地区は、本震の震央から南約1.5kmの近距離にあり、部落が点在している。この地区の中村部落、井手下部落を中心に調査した。 住民の話では、発震と同時に地鳴りを伴い、下から突き上げられるような衡撃を受け、家が揺れ、棚の上の物が落ちた程度で、タンス、棚など家具類は倒れなかった。また、中村部落の山の中腹にある畑の南北方向に走っている大部分のあぜ道に、約20〜30cmの落差を持った亀裂があったが、東西方向のあぜ道には、全く見られなかった。
家屋の被害はわずかで、一部の壁土の落ちたもの、亀裂が生じたものやコンクリートたたきにひび割れを生じたものがあった。
墓石、石碑等の転倒が多く、墓石の転倒率は、中村部落で約90%、井手下部落で約60%でいずれも南東ないし南方向に倒れていた。井手下部落にある阿蘇野神社では、石造りの鳥居(高さ3m、直径40cm)の片方(以前に折損した形跡あり)が倒れ、また、石灯ろう、記念碑など 倒れていたが、木造の神社は、天井の部分だけが少し破損した程度であった。中村部落にある中臣神社では、境内の石灯ろうの頭の部分、こま犬の一部が南東方向に転落していた。
大分方面に通ずる道路沿いでは、山崩れ、がけ崩れが多く見られ、一部が決壊したため数日間不通になった。推定震度は5程度。

(3) 湯布院町山下池付近
九州横断道路の小田の池料金徴収所付近は、道路の亀裂が多く、料金徴収所は、西の方へ倒壊していた。また、ここから阿蘇寄りに1,2 0 0 m行ったところの道路が長さ100m,高さ50mにわたり大きく決壊し通行止めとなった。料金徴収所から南に入ると、小田野池と山下池があるが、この山下池の岸辺に建っている九重レ一クサイドホテル(地下1階、地上4階の鉄筋建、昭和40年オープン)の1階玄関ロの柱が折れ、この玄関ロに2階以上が落ちこんだ形で北西に傾き、倒壊していた。しかし、ホテルから約500 m離れたところのゴルフ場の木造2階建は、内部施設に被害を受け、 屋根がわら落ちた程度であった。なお、ゴルフ場の支配人によると、 この山下池は、大正の初期、九州電力が大分川の発電所の貯水用としてつくったもので、当時100mほとボーリングしたが岩盤がなかったということである。推定震度は6程度。

(4) 湯布院町湯平地区と扇山地区
湯平地区の家屋は、山の斜面に階段状に建てられたものが多い。家屋自体の被害は、大きくはなかったが、屋根がわらが落ち、また、4〜5軒の旅館の玄関付近のたたきには、亀裂が入り、 20〜30cmほど土台が前方に押し出されていたところがあった。また、がけ崩れ、落石などあちこちに見られ、落石のため給水用の水道管が破損していた。推定震度は5〜6程度。
扇山地区の家屋は、3軒ほど被害を受けていたが、被害は比較的小さかった。しかし、道路には、多くの亀裂が生じ、山崩れが各所に見られた。墓石は、ほとんど倒れていたが、方向はまちまちで、墓石の2段目, 3段目の台石が時計まわりにねじれ、東にずれているものもあった。なお、引き続き起こった余震の際には、必ずと言ってよいほど内山地区方面から地鳴りが聞こえるとのことであった。推定震度は6程度。

(5)九重町奥双石地区
戸数20戸余りの小さな山村である。大部分の家が被害を受け、このうち数軒は、ほとんど全壊に近い状態であった。全壊した家の宅地内には、多くの亀裂が生じ、大部分は東西方向の走行を示していた。また、盛土したコンクリート造りの石垣やブロック塀が崩れ落ち、新築後間もない家の壁土が落ちたり、ひび割れ、土台のずれなどが見られた。各所に山崩れ、がけ崩れが多く見られ、山の斜面下にある家屋は、2次的な被害が予想されたため、ここの住人に対しては避難命令が出された。
この地区の入口付近の崩部落では、小高い丘の稜線に沿って、東西にほぼ300メートル(中間は水田のため確認できなかった)にわたり大きな地割れがあり、割れ目の最も大きいところは幅150センチメートル,深さ150センチメートル以上もあった。なお、割れ目の中の、裂かれた長方形の石の配列は、左ずれ断層のようなずれ方をしている所が見られた。本震と同時に地鳴りがあり、その後の余震でも地鳴りが聞こえるとのことであった。墓石はすべて倒れ、方向は北方向のものがやや多かった。推定震度は6程度。

(6) その他
直入町下田北の塩手部落では、家屋の全半壊したもの8棟で、屋根がわらが落ちたり、壁土がはげるなどの被害があった。野津原町内では住家16棟が一部破損する等の被害があった。

【出典:大分県災異誌 第4編(昭和46年~55年)(1981.12)】

災害データ

地震発生時間
02:35
マグニチュード
6.4M
震源の深さ
-
最大震度
4
最大震度観測地
大分市長浜(旧)
津波有無
-
死者・行方不明者数
-
負傷者数
38人
住家全壊/全焼数
77戸(棟)
住家半壊/半焼数
115戸(棟)
住家一部損壊数
2164戸(棟)
床上浸水数
-
床下浸水数
-
道路被害 ※事前通行規制は除く
300か所
橋梁被害
3か所
山・崖崩れ
-
被害総額
11,348,344 千円

主な被害

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【昭和50年4月大分県中部地震】鉄筋4階建てのホテル1階のピロティ部分がつぶされ3階だてのようになり、内部も大破、使用できなくなった。ホテル(地下1階、地上4階の鉄筋建、昭和40年オープン)の1階玄関ロの柱が折れ、この玄関ロに2階以上が落ちこんだ形で北西に傾き、倒壊した。しかし、ホテルから約500メートル離れたところのゴルフ場の木造2階建ては、内部施設に被害を受け、 屋根がわら落ちた程度であった。

【昭和50年4月大分県中部地震】集落の東にある時山(958メートル)の山頂付近が崩れ、約10トンの大石が集落の入口の牧道まで転落した。

【昭和50年4月大分県中部地震】付近は道路の亀裂が多く、料金徴収所は、西の方へ倒壊していた。また、ここから阿蘇寄りに1200メートル行ったところの道路が長さ100メートル、高さ50メートルにわたり大きく決壊し通行止めとなった。

【昭和50年4月大分県中部地震】境内の石灯ろうの頭の部分、こま犬の一部が南東方向に転落していた。

【昭和50年4月大分県中部地震】大部分の家が被害を受け、このうち数軒は、ほとんど全壊に近い状態であった。全壊した家の宅地内には、多くの亀裂が生じ、大部分は東西方向の走行を示していた。また、盛土したコンクリート造りの石垣やブロック塀が崩れ落ち、新築後間もない家の壁土が落ちたり、ひび割れ、土台のずれなどが見られた。各所に山崩れ、崖崩れが多く見られ、山の斜面下にある家屋は、2次的な被害が予想されたため、ここの住人に対しては避難命令が出された。
この地区の入口付近の崩部落では、小高い丘の稜線に沿って、東西にほぼ300メートル (中間は水田のため確認できなかった)にわたり大きな地割れがあり、割れ目の最も大きいところは幅150センチ、深さ150センチ以上もあった。なお、割れ目の中の、裂かれた長方形の石の配列は、左ずれ断層のようなずれ方をしているところが見られた。本震と同時に地鳴りがあり、その後の余震でも地鳴りが聞こえるとのことであった。墓石はすべて倒れ、方向は北方向のものがやや多かった。推定震度は6程度。

【昭和50年4月大分県中部地震】集落の山の中腹にある、畑の南北方向に走っている大部分のあぜ道に、約20〜30センチの落差を持った亀裂があった。しかし東西方向のあぜ道には、全く見られなかった。墓石、石碑などの転倒が多く、墓石の転倒率は、中村部落で約90パーセントでいずれも南東ないし南方向に倒れていた。

【昭和50年4月大分県中部地震】3軒ほど被害を受けていたが、被害は比較的小さかった。しかし、道路には、多くの亀裂が生じ、山崩れが各所に見られた。墓石は、ほとんど倒れていたが、方向はまちまちで、墓石の2段目, 3段目の台石が時計まわりにねじれ、東にずれているものもあった。なお、余震の際には、必ずと言ってよいほど内山地区方面から地鳴りが聞こえたとのこと。推定震度は6程度。

【昭和50年4月大分県中部地震】震源地に近いこの地区はもっとも被害が大きく、ほとんどの家が全半壊し、集落に通じる道路も数か所にわたって決壊したため交通が途絶えた。
住民の話では、発震と同時に地鳴りを伴い、下から突き上げられるような衝撃を受け、室内のタンス、棚などが倒れた。また、発震直後、あわてて戸外に飛び出た一部の人は、部落の西〜北西方向の山の頂上付近が明るくなり、白煙のように見え、その明るさは窓ガラスにうつるような程度であった。本震のあとも、地鳴りを伴った余震(震度1〜3程度)が起きており、地鳴りが大きいと揺れ方が大きく、地鳴りが小さいと揺れ方も小さいということであった。

また、家屋は東に傾いたものが1棟あり、その他は、すべて西に傾いていた。屋内の家具類も大部分が破損し、台上に置いてある電話機の受話機だけが下からの衝撃を受けたため、飛び上がって離れた所に落ちていた。 また、四方がブロックでできている倉庫の屋根の部分だけ北西方向におよそ2メートルずれ、田の中にある大石(重さ約5トン)が同じく北西方向に20センチほど移動していた。そのほか、山崩れ、道路の亀裂、路肩が崩れ落ちるなど多く見られた。3か所にある墓地の墓石は、すべて倒れていたが、整備されていない墓地もあったため、転倒方向は、まちまちであったが、2段目や3段目の墓石は、北西方向にずれたものが多かった。被害の状況からこの地区での震度は、6程度と推定された。

【昭和50年4月大分県中部地震】建物の倒壊、道路の決壊、山崩れ、墓石の転倒などかなりの被害があった。町内では住家16棟が一部破損するなどの被害があった。

【昭和50年4月大分県中部地震】8棟の家屋が全半壊し、屋根がわらが落ちたり、壁土がはげるなどの被害があった。

【昭和50年4月大分県中部地震】発震と同時に地鳴りを伴い、下から突き上げられるような衡撃を受け、家が揺れ、棚の上の物が落ちた程度で、タンス、棚など家具類は倒れなかった。家屋の被害はわずかで、一部の壁土の落ちたもの、亀裂が生じたものやコンクリートたたきにひび割れを生じたものがあった。大分方面に通ずる道路沿いでは、山崩れ、崖崩れが多く見られ、一部が決壊したため数日間不通になった。推定震度は5程度。

【昭和50年4月大分県中部地震】屋根がわらが落ち、また、4、5軒の旅館の玄関付近のたたきに亀裂が入り、 20〜30センチほど土台が前方に押し出されていたところがあった。また、崖崩れや落石などがあちこちに見られ、給水用の水道管が破損していた。推定震度は5〜6程度。

【昭和50年4月大分県中部地震】墓石、石碑などの転倒が多く、墓石の転倒率は、井手下部落で約60パーセントで、いずれも南東ないし南方向に倒れていた。

【昭和50年4月大分県中部地震】建物の倒壊、道路の決壊、山崩れ、墓石の転倒などかなりの被害があった。

【昭和50年4月大分県中部地震】建物の倒壊、道路の決壊、山崩れ、墓石の転倒などかなりの被害があった。

【昭和50年4月大分県中部地震】建物の倒壊、道路の決壊、山崩れ、墓石の転倒などかなりの被害があった。

【昭和50年4月大分県中部地震】建物の倒壊、道路の決壊、山崩れ、墓石の転倒などかなりの被害があった。

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