災害【昭和46年8月台風第23号】
発生期間 昭和46年8月29日-昭和46年8月30日 ) |災害番号:007940|固有コード:00794000
- 災害の種別
- 台風 大雨 強風
- 市町村
- 九重町 別府市 宇佐市 玖珠町 由布市 臼杵市
概要
台風第23号は8月21日9時に南鳥島の南西海上で発生した。台風は27日までは日本を覆う太平洋高気圧に北上を妨げられて非常に遅い速度で北緯26度線に沿って西進を続けた。この間の中心気圧は960ミリバール前後の中型の並の勢力であった。台風は8月28日の朝、南大東島の東方海上に達したころから、次第に勢力を強めながら進路を北西に向けて九州に近づいた。すなわち、28日21時には940ミリバールに、29日3時には種子島と奄美大島の間に達し930ミリバールの大型の強い台風に発達した。さらに、1時間に15キロぐらいのゆっくりした速度で進路を北に向け、29日18時には種子島付近に達して915ミリバールの非常に強い台風に発達し中心付近の最大風速は50メートルとなった。このころから向きを北北東に向け、その勢力はやや衰えたものの29日23時30分には中心気圧940ミリバールを保って、鹿児島県の佐多岬付近にヒ陸した。上陸後はいくぶん勢力を弱めて九州の東岸沿いに北北東に進み、30日3時に鹿児島県鹿屋市付近を950ミリバールで、6時には宮崎市付近を960ミリバールの勢力で通過し、9時過ぎには宮崎県川南町の北方から日向灘北部に出た。その後、向きを北東にとり、12時ごろ大分市の南東約100キロの海を通って15時ごろには足摺岬付近に達し、30日20時ごろ室戸岬の北方に再上陸して四国を北東に進んだ。
台風が奄美大島の北東海上に達した29日3時ごろから県南部の下障子ロボット雨量計(竹田市倉木)は強雨が始まったことを報じ、台風が屋久島付近を通過した29日の夕方から大分市でも次第に風雨が強まった。台風が九州南部に上陸するころから大分市では東風による瞬間風速が20メートルをこえ、県内も暴風雨圏に入った。30日1時20分には26.5メートル(E)の最大瞬間風速を観測した。台風が鹿児島県鹿屋市付近にあった夜半すぎごろから大分市の風向は、次第に東から反時計りに変わりながら風雨が激しくなった。これまで県南部を中心に降り続いた強い雨の区域が、県中部に広がり12時10分に大分市では最低気圧985.1ミリバールを観測した。風雨は、台風が四国の土佐湾に出た30日の夕方まで続いた。
台風の特性:
(1)大型の非常に強い台風であった。奄美大島の東方海上付近から急速に発達し、種子島付近で915ミリバール、最大風速は50メートルの強い勢力となった。これは昭和20年9月に来襲し、大被害があった枕崎台風に匹敵するほどのものであった。(2)強い風と雨を伴った台風であった。特に県南部では豪雨が降り、総雨量が700ミリと近いところもあった。気象台の大分空港出張所では30日11時30分に最大瞬間風速30.6メートル(NE)を観測した。(3)台風の速度が遅かったので、九州への影響が28日から30日まで3日間も続いた。このため、九州山脈の東側では雨量が著しく多かった。(4)このたびの台風は、県内の南部や中部に大雨を降らしたため、各地に水害が発生した。
このたびの台風は、県内の南部や中部に大雨を降らしたため、各地に水害が発生した。県下各地にがけ崩れが多発した。大分川、大野川などの河川では30日の朝になって警戒水位をこえたところが多く、南海部郡の堅田川では危険水位をこえた。県の南部や中部では家屋の浸水被害が多かった。30日15時すぎの満潮時には台風がすでに四国の足摺岬へ向い、勢力も衰えていたことと、大潮でなかったことが幸いして、高潮による被害はなかった。しかし、別大道など海岸にはなお波が打ちあげた。30日には大分空港に発着の全便が欠航したのをはじめ、関西汽船など四国、本州を結ぶ客船、フェリー船は全部欠航し、大分鉄道管理局管内の全線、及びバス路線も運休し、県下の交通網は完全にマヒ状態になった。
【出典:大分県災異誌 第4編(昭和46年~55年)(1981.12)】
このたびの台風は、県内の南部や中部に大雨を降らしたため、各地に水害が発生した。県下各地にがけ崩れが多発し、30日朝、臼杵市では、がけ崩れのため倒れた家屋の下敷きになって1名が死亡した。また、玖珠郡玖珠町では橋が流され、通りがかりの車2台が激流にのまれて4名死亡し、1名が行方不明になるなどの被害があった。
大分川、大野川などの河川では30日の朝になって警戒水位をこえたところが多く、南海部郡の堅田川では危険水位をこえた。県の南部や中部では家屋の浸水被害が多かった。30日15時すぎの満潮時には台風がすでに四国の足摺岬へ向い、勢力も衰えていたことと、大潮でなかったことが幸いして、高潮による被害はなかった。しかし、別大国道など海岸には高波が打ちあげた。
30日には大分空港に発着の全便が欠航したのをはじめ、関西汽船など四国、本州を結ぶ客船、フェリー船は全部欠航し、大分鉄道管理局管内の全線、及びバス路線も運休し、県下の交通網は完全にマヒ状態になった。九州電力の大分支店管内では、30日の6時から10時までは全世帯の8パーセントにあたる約3万3,000戸が一時停電した。さらに、農作物の被害が多かった。特に、さきの19号台風で農作物を中心に総頟77億3,464万円にのぼる被害があった。農作物の中でも出穂期を向えた水稲とレタス、ニンジン、白菜などの秋野菜の打撃が大きかった。このほか、ミカン、ナシ、モモなどの果樹にも被害があった。
【出典:1971/8/29 21:00の天気図】
災害データ
- 最低気圧
- 985.1hPa
- 最低気圧観測地
- -
- 最低気圧観測日時
- 1976/8/30 12:10
- 最大風速の風向
- 東
- 最大風速
- 17.7メートル
- 最大風速の観測地
- 大分
- 最大風速の観測日時
- 1976/8/30 3:00
- 累積最大降水量
- 697ミリ
- 累積最大降水量観測地
- 北川ダム(大分県)
- 日最大降水量
- 537ミリ
- 日最大降水量観測地
- 北川ダム(大分県)
- 最大日降水量の観測年月日
- 1976/8/29
- 最大1時間降水量
- -
- 最大1時間降水量の観測地
- 大分
- 最大1時間降水量の観測年月日時間
- 1976/8/30 1:00
- 死者・行方不明者数
- 6人
- 負傷者数
- 16人
- 住家全壊/全焼数
- 10戸(棟)
- 住家半壊/半焼数
- 18戸(棟)
- 住家一部損壊数
- 111戸(棟)
- 床上浸水数
- 240戸(棟)
- 床下浸水数
- 1252戸(棟)
- 道路被害 ※事前通行規制は除く
- 723か所
- 橋梁被害
- 25か所
- 山・崖崩れ
- -
- 被害総額
- 5,304,177 千円
主な被害
マップを見る近くの県道に集まった水が鉄砲水のようにホテルに流れ込み床上40センチまで浸水した。1階には16人の客が泊まっていたが、全員2階に避難して無事だった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】
裏山のがけが高さ10メートルにわたって崩れ落ち、約200立方メートルの土砂が木造杉皮ぶき平屋建ての住宅と物置の2棟が倒壊した。土砂の量が少なかったので家族6人ははい出し避難したので無事だった。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】
裏のがけが長さ約15メートルにわたって崩れ落ち、木造平屋建ての住宅が押し倒された。家族2人が倒れた家の下敷きとなり、70 代の女性が軽いけがをした。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】
市浜地区のはけきれない水がたまり始めたため、県営住宅・市営住宅のうち80世帯が床上浸水。市の災害対策本部は避難命令を出し、住民は近くの安養寺や市浜クラブへ避難した。正午すぎには水深が1メートル近くに達したため、警察はゴムボート1隻を出し、老人や子どもを中心に救助活動をした。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】
玖珠川が増水。橋の中央部を支える橋脚下の川底が洗われたため中央部付近が折れ、小型三輪車と乗用車の2台が川に転落。合わせて6人が流された。1人はまもなく救助されたが、50代の男女2人と20代の男性、3歳と1歳の子どもが行方不明となった。目撃者によると小型三輪車がスペアタイヤを落とし、通りがかった乗用車がタイヤを積む作業の手伝いをしている最中だったという。20代の男性は午後0時半ごろ、50代の女性は翌日午前7時ごろ下流で遺体で発見された。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】
裏山の土砂が高さ20メートル、幅5メートルにわたって崩れ落ち木造かわらぶき平屋建ての住宅と、別棟の木造平屋建ての離れの2棟が巻き込まれた。離れは倒壊し、そこで寝ていた家族3人が屋根の下敷きになった。2人は自力ではい出したが、60代の男性が死亡した。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】
筌ノ口川にかかる橋が流失した。
【出典:大分合同新聞 1971年8月30日朝刊7面】